My Variegated Days

09

 どんどん時間は過ぎていき、空は暗闇へと変わっていく。観覧車の待機列はなくなり、もう少しで降りてくる人もいなくなるだろう。渚はどこにいるのだろうか、とふと考える。足を怪我して動けない状況で、渚はどうするつもりなのだろうか。助けを呼んだところで、今から遊園地に入れるのだろうかと心配になる。
 どうにか『半妖』になってしまっている憂凛と、怪我をしている渚の二人を連れてここから出ることができればいいのだが。その前に見つけないことにはどうにもならない。あとは郁真と佑月の二人が問題だ。
 どうすればいいのかが、本当に分からない。戦ったところで果たして何とかすることができるのだろうか。とにかく気絶させることができれば、とは思うが、どうやって気絶させるかというところが問題になってくる。郁真と佑月が一緒にいるとするのであれば、佑月を『アリス』に抑えていてもらえば、とは思うがそうなると一対一で郁真と戦っても勝てない、という問題に戻ってくる。
 結局郁真の目的は、憂凛を『半妖』にすることだったのだろうか。だとしたら、何故。

「……あ、『人喰狐』」

 ふと思い出したのは、その単語。存在しない筈の、しかし噂だけが一人歩きしているもの。それがもし、『これから』発生させるための布石であったとしたら。
 恐らく佑月は前から準備していた、と渚は言っていた。そうであるなら『人喰狐』の噂も、元を正せば佑月が流した噂の可能性がないとは言えない。佑月が『彼岸』であるならば、『此方』の人間に気づかれないようにそっと噂を流すことも不可能ではなさそうだ。

「恭くん」
「へ、……うおあっ!?」

 そんなことを考えていると、不意に虚空から手が現れた。伸びてきた手と共に聞こえた声は『アリス』のものだ。ぐい、と引っ張られたその瞬間、目の前の景色が変わっていく。
 真っ暗な暗闇の中。そこに『アリス』と郁真の姿があった。見回してみたが、憂凛と佑月の姿は見当たらない。『アリス』と郁真は互いに怪我を負っているようで、随分とぼろぼろだ。

「アリスちゃん怪我!? 大丈夫!?」
「これくらい気にしないの。……ごめんなさい恭くん、領域を奪い取ったら向こうの『カミ』……、佑月、だったかしら。逃がしてしまって。憂凛も連れていかれたわ」
「奪い取ったの!? 壊したんじゃなくて!?」
「ええ」

 言われた言葉を頭の中で反芻する。『カミ』の呼称に続いた、佑月の名前。恭の中の記憶が間違っていることを信じざるを得ない。創られた、存在しない思い出。
 目の前の『アリス』は恭ではなく、ずっと郁真から視線を離さない。その郁真は『アリス』よりも多くの怪我を負っているようだった。目が虚ろで、どこを見ているのかが分からない。

「郁真くん、」
「裏切られた……嘘だった……こんなにがんばったのに」
「……裏切られた?」
「許さない、絶対、許さない」

 ぶつぶつと呟き続ける郁真は、先ほどまでの郁真とは全く様子が違う。一体恭がここに来るまでに何が起きていたのか。説明を求めるように『アリス』に視線を向けると、『アリス』は困惑したように肩を竦めた。

「私が来たときにはコイツ、もうこの状態だったの」
「……ってことは、その前に何かあったんだ」
「そうね。……まあ説明してくれるような状態じゃあなさそうだけれど」

 この郁真を琴葉のところに連れていけば、話が聞ける状態になるだろうか。しかし、今すぐにそんな時間はない。とにかく憂凛と佑月を探す必要がある。

「っ……ぶんちゃん、もっかいゆりっぺ探し直せる?」
『おう! でもこっから出な無理やぞ!』
「う……でも郁真くんが」
「彼のことは此処に置いていって大丈夫、私が見張ってる。今ここは私の場所だから」
「でもこの状態で、」
「恭くん、優先順位を間違えないで。今一番やらなければいけないのは?」

 一番やらなければならないことは。
 それを考えるのは簡単だ。恐らく今は佑月と一緒にいるであろう憂凛を見つけ出すこと。憂凛を助けなければならない。もし本当に憂凛を『人喰狐』にされてしまったら、文字通り人を喰ってしまう存在になってしまったら、憂凛は本当に戻れなくなってしまう。

「……っ、くそっ」
「ほら、早く行ってあげて」

 とん、と『アリス』に背中を押されて――次の瞬間には、恭は遊園地に戻ってきていた。
 入ってきたときは観覧車の近くだったが、全く違うところに出ている。目の前には人を乗せずに回っているメリーゴーランド。時計を見れば、もう閉園時間になっている。

「ぶんちゃん」
『おう、待っとけ』
「あらあら?そんなにのんびりしてていいんですの、『ヒーロー』さん」
「っ!?」

 背後から急に声を掛けられて、後ろを振り返る。そこに立っていたのは一人の少女だった。ふわりとした黒髪ボブヘアに青い瞳をした少女――見覚えは、ない。
 恭が『ヒーロー』だと知っているということは、『此方』か、『彼方』か、或いは『彼岸』か。

「……どちら様で……?」
「そんなに警戒なさらなくても大丈夫ですわよ。狐娘……っと、橘 憂凛を探しているんでしょう?柳川 恭くん」
「えっ何で知って、っていうか何で俺の名前まで知ってんの!? エスパー!?」
「ふふ。申し遅れました。私は三条 小夜乃。鹿屋 琴葉の使いの者です」

 三条 小夜乃という名前を聞いてもやはり聞き覚えはないが、続いた琴葉の名前にほっと体の力が抜ける。それなら恭の名前を知っていても、憂凛を探していることを知っていても別におかしくはない。渚の連絡で来たということだろう。

「ゆりっぺの居場所知ってるんすか?」
「ある程度は見当はついています。一緒に行きましょうか」
『恭! あかんぞ、その女信用すんな!』
「ぶんちゃん?」
『その女『ディアボロス』や!』
「へ?」

 悪魔憑きである『ディアボロス』。『彼方』側の存在であるということを聞いたことがある覚えがある。しかしそれがどうして信用するな、になるのかが分からない。

「琴葉先生の知り合いなら別に問題ないんじゃ?」
『お前ちょっと簡単に人信用しすぎやろ!?』
「ぶんちゃんが疑い過ぎなんじゃ……?」
『アホ恭! お前『シャーマン』にえらい目に遭わされてんのにまだ分からんのか!? 『彼方』の人間を簡単に信用したらあかんのやぞ!』
「そんなの信じてみなきゃ分かんないじゃん、『彼方』にもいい人いてもおかしくなくない?」
「……ふふ。面白い子ですわね、貴方。気に入りました。……心配しなくても取って食べちゃったりなんてしませんわよ。どうしても心配で気になると言うのであれば、今この場で琴葉お姉様に確認して頂いても私は一向に構いません」
「……いい、そんなことしない。俺信じるし」
『恭!』
「ゆりっぺ助けられるんだったら、相手が誰で何でも頼りたいんだよ、今」

 現状、恭一人ではどうにもならない相手だ。『彼方』だろうと何だろうと、力を貸してくれるのであれば借りたい。郁真一人にすら勝てない恭が、佑月という『彼岸』に勝てるとは思えない。場合によっては、憂凛とも戦わなければいけないかもしれないのだ。連れて帰るために、元に戻すために、その可能性は否定できない。

「それでは改めまして、私は三条 小夜乃。そちらの小さいのが仰る通り、『ディアボロス』です。お好きにお呼び下さいな」
「えっと、俺は柳川 恭、『ヒーロー』っす! じゃあ小夜ちゃん、よろしくお願いします!」
「ふふ、こちらこそ。それでは参りましょうか」


 小夜乃に連れてこられたのは、スタッフ用の通路であろう場所だった。少し細い路地のようになっているその場所に、確かに佑月はいた。見た目はぼろぼろになっているようで、恐らく『アリス』から逃げた後ここで休憩を取っていたのだろう。
 佑月の足元に、憂凛が座っていた。座っているというよりは、座ったまま眠っているようにも見える。ちらりと見える狐の耳と尻尾の色は、やはり灰色に染まったまま。

「……ゆっちゃん」
「あー……柳川くんだー。ねえ柳川くんとこの『カミサマ』ちょっと凶暴が過ぎない? 力づくで持ってかれちゃうとかハジメテの経験過ぎて意味わっかんないったら」

 あはは、とおかしそうに笑いながら、佑月は言う。――『彼岸』。記憶にはあるのに、本当は今日初めて会った少女。
 やはりこうして相対しても、全く信じられない。恭の中にはきちんと記憶がある。初めて憂凛に紹介された時のことも、何度か一緒に遊んだことも、覚えている。それなのに。
 どこから記憶がすり替わってしまっているのだろうか。全て嘘の記憶だとしたら、本当の記憶はどこにいってしまったのだろう。

「……アリスちゃんは、俺の頼れる友達だから」
「友達。あは。『カミサマ』相手に、友達? 笑わせてくれるじゃないの、馬鹿みたい。……で、そっちの『ディアボロス』は何の用で一緒に居るの? 目障り」
「あら。私はただの通りすがりの見物人ですわ、どうぞお気になさらず」
「……気にするでしょう、馬鹿じゃないの。『ヒーロー』と『ディアボロス』ってどういう組み合わせよ、頭おかしいんじゃないの本当に」

 くすくすと笑う佑月はしかし、どこか怒っているようにも見えた。
 どうして佑月は、恭を――いや、恐らくは憂凛を、狙ったのだろうか。郁真に力を貸すことで憂凛を『半妖』へと変えて、その目的が分からない。

「……なあゆっちゃん、何で」
「『何で』? あは、柳川くんってほんっとーに、馬鹿だよね。簡単に記憶弄れちゃうんだもんなあ。松崎さんとか疑り深すぎて全然弄る時間足りなくてバレちゃったのになー」
「ゆりっぺになんか恨みでも」
「は? あるわけないでしょそんなもの」
「じゃあ何で!」
「面白そうだったからだけど?」

 あっけらかんと、本当に何も悪びれることなく、佑月は言う。――何を言っているのか、分からない。

「柳川くんもだけど、憂凛ちゃんも頭おっかしーんだもん。『半人』だったり『ヒーロー』だったりするくせに、『化物』とか『外法使い』とかと仲良しだったりするでしょ? 今日は『ディアボロス』とご一緒だし?ホント馬鹿げた話だよねー……思わない? 『ディアボロス』さん」
「……さあ?私が心からお慕い申し上げているお方は『ヒーラー』ですから、一概には言えませんとしか」
「なーにー? 貴女も頭おかしい組なの? 意味分っかんない」

 それがそんなに変なことなのか、恭には分からない。
 恭の付き合いのある友人の中には、確かに『外法使い』もいる。悪いことばかりしているが、だからといって悪い奴だ、というわけではない。その友人と遊ぶことに関して律はあまりいい顔をしないが、止めるようなことはしない。
 恭には分からない。『此方』だから、『彼方』だからと区別する必要があるとも思えない。どんな力を持っていても、皆生きている。憂凛にしても、その辺りのことはあまり気にしていないようにも思う。

「まあだから、私としてはひとつ実験なのよ、柳川くん。せっかく手間暇かけたから、ちゃんとさせてもらいたいな」
「実験?」
「私達側ならともかく、柳川くんみたいな人間が『此方』も『彼方』も関係ない、ついでに私達みたいな『彼岸』だって関係なくトモダチだー、って言うなら、……堕っこちた憂凛ちゃんとだって、仲良く出来るでしょ?」

 佑月の手が伸びる。その手がくしゃり、と憂凛の頭を撫でた瞬間、少し憂凛が動いたのが見えた。思わず一歩踏み出そうとした恭を止めたのは、小夜乃の手。

「迂闊に近づくのは関心しませんわね」
「……でも」
「貴方にとってどちらであろうと関係ないのは分かりますが、『此方』から『彼方』に堕ちてくる、ということは、人が変わる、ということですのよ、柳川 恭くん」
「……人が、変わる?」
「よくご存知ねえ、『ディアボロス』さん。……さーて。ねえ憂凛ちゃん、お腹空いてない?」

 人が、変わる。
 そう――だから恭は考えたのだ。憂凛が『人喰狐』に変わってしまうのではないか、と。それは分かっていたし、最悪戦うことになるかもしれないということも考えた。しかし。

「……おなかすいた……」

 それは聞き慣れた憂凛の声だった。ぼそりと小さく呟いて、憂凛が立ち上がる。どこか焦点の合っていない、ぼんやりとした瞳をこちらに向けて。

「……ゆりっぺ?」
「ゆづ……ゆり、おなか、すいた」
「うん。好きなもの食べていいよ」
「……ほんと? おこらない?」
「うん」
「……へへ」

 嬉しそうに笑って頷いた憂凛が、不意に真っ直ぐ恭を見た。浮かべている表情は、いつもの憂凛と何ら変わりなく見える。これならばきっと、『彼方』とはいえ憂凛は憂凛なのだろう。大丈夫だ、と思った次の瞬間。

「避けてっ!」
「ッ!?」

 小夜乃の叫び声。しかし反応する間もなく、恭の体は地面に叩きつけられていた。強かに背中を打って、一瞬息が止まる。
 恭の上で、憂凛は笑っている。暗い琥珀色の瞳を光らせて。

「邪魔させないからね、『ディアボロス』」
「……っ、全くいつまでもあの鴉は何をしてるんですの、私は戦闘向きじゃないって言っているのに……!」

 視界の端で、佑月の姿が変わったのが見えた。舌打ち交じりに文句を言いながら、小夜乃が構えたのも見えた。恐らく小夜乃に恭をすぐに助ける余裕はないだろう。小夜乃の視線の先にいるのは、黒い豹――恐らくは、佑月の本当の姿。

「ねえ、きょおちゃん」
「ゆりっぺ、どいて! ゆっちゃん止めなきゃだめだ!」
「あのね、ゆりね、きょおちゃんたべたいな」
「え」
「ゆづがすきなものたべていいっていったから、じゃあ、きょおちゃんたべていいよね?」
「――っ、あああああっ!?」

 にこりと憂凛が笑う。その瞬間に肩を抉った痛みに悲鳴が漏れる。
 何が起きているのか、分からない。痛みの走る肩にあるのは、憂凛の頭。それが動くたびに、ひどい激痛が肩に走る。
 喰われている。痛みに上がる悲鳴を殺せないまま、頭の中にその言葉が浮かぶ。

「いっ、あっ、うああああっ!」
「あー……きょおちゃん、あばれたら、たべらんないよう」
「や、め、――っ!?」
「だめなの……ゆり、おなかがすいてるの。ねえ、じっとしてて?」

 激痛と共に足の感覚が消え失せる。悲鳴が声にならなくなるほどの激痛。痛みで視界が霞む。ね、と首を傾げて恭を見下ろす憂凛の口元は、顔は、血で真っ赤に染まっている。
 どうして。どうして、どうして、どうして。
 頭が全く動かない。何故こんな状況になっているのか分からない。意識がどんどん吞み込まれていく。真っ暗に堕ちていこうとしている。
 憂凛の頭がまた下がって、首筋に何かが当たる感触。『そこ』が傷つけばどうなるかなど、流石に恭でも知っている。

「やめっ……」

 言葉は、最後まで紡がれることなく。