My Variegated Days

10

「……あれ、」

 ふと意識が戻って目を開くと、視界に入ったのは白い天井。どこだろう、と思いながらもくらくらする頭に数度瞬き。何があってどこにいるのか、思い出せない。
 どうやらベッドに寝ているらしい、ということに気付くまでに数秒。体を起こそうとするとまた頭がくらくらして、倒れてしまうような気がしてそのままベッドに身を任せる。徐々に戻ってくる記憶――確か自分は、遊園地にたはずで。

「……ぶんちゃんいるー?」
『お!? 起きたか恭! 大丈夫か!?』
「……あ、いた」

 ベッドサイドの小さなテーブルの上に、恭のスマートフォンが置かれていた。飛び出して出てきた白いもやもやが画面の上でぴょんぴょんと跳ねているのが視界に入って、少しほっとする。

『ここ、琴葉のおる病院や。あの『ディアボロス』と何やよお分からん男が助けてくれてな、憂凛とここに運ばれたんや』
「びょーいん……何で俺病院にいんの?」
『……そらお前……今生きてるのが奇跡やぞまじで……覚えてへんのか?』
「ええと……」

 言われて、記憶を掘り返す。遊園地に遊びに行って、憂凛と二人でお化け屋敷に入ったときに郁真に襲われた。そして憂凛が『半妖』になってしまって、佑月が『彼岸』だということが発覚して、『アリス』に郁真を任せて憂凛と佑月を探し回った。その途中で小夜乃と出会い、その後。

「っ……」

 思わず首筋に手が伸びた。確かに噛みつかれた、噛み千切られた。肩を抉られ足を吹き飛ばされ、最後は頸動脈の上、明らかな致命傷となる部分を。しかしその部分に触れても特に痛みはない、恐らく既に治療が済んでいるからだろう。吹き飛ばされた足の感覚も戻っている。布団を捲って確認する勇気はないが足の指先が動くのが分かるので、そこは問題がないと思いたい。

「……ゆりっぺとゆっちゃんは? それに松崎先輩と郁真くんも」
『ワケ分からん男が来て何やかんやしよったみたいやけど、よお分からんのや。ただこの病院にはおるはず』
「やあ目が覚めたようだね少年!」
「うおっ!?」

 派手な音を立てて、勢いよく病室の扉が開いた。病院でそんなに大きな音を立てていいのかと思いながらもそちらに視線を向ければ、そこに立っていたのは老齢の男。白衣を着ているので、この病院の医師なのだろう。

「……ぶんちゃん、ワケ分からん男ってあの人?」
『ちゃう、あいつも訳分からんけども、あのじじいは』
「だーれがじじいだって!? まだまだぴちぴちの60代を捕まえてひどいな! 少年、首とか肩とか足とか痛んでないかな? 大丈夫?」
「あ、えと、はい、大丈夫っす。ちょっと頭くらっくらしてるけど……」
「ああ、貧血だろうねー。少年死んでたからそれくらいは諦めようか!」
「えっ」
「おっと、自己紹介がまだだったね。僕は鹿屋先生の恋人です!」
「は!?」
「嘘だよツッコんでくれなきゃあ」

 衝撃的なことを立て続けに言われて頭が混乱している恭を特に意にも介さず、はっはー、と医師は笑う。一体何者なのかさっぱり分からない。スマートフォンの画面の上で『分体』が呆れ切った溜め息を吐いている。出会ってからずっとこの調子なのかもしれない。

「僕は我妻 斯道といいます。この病院の院長だよ」
「……いんちょー……うそだあ……」
「ぶー、残念! これは本当だよ。ちょっと鹿屋先生一人じゃ手に負えなかったからね、君の治療は僕が引き受けたんだ」

 一瞬本気で大丈夫だろうか、と心配してしまう。しかしくらくらする以外はどこも調子は悪くなさそうだ。寝転がったまま少し肩を回してみたが、全く痛みは感じない。
 ――思い出すのは、憂凛の真っ赤に染まった口元。

「……あの、ゆりっぺ。おじいちゃん、ゆりっぺ知らないすか」
「だからおじいちゃんって言うのやめてくれないかな!? まあいいけど。ゆりっぺっていうのは憂凛ちゃんかな? 今鹿屋先生が診てるよ」
「ええと、じゃあ、松崎先輩」
「渚くんなら大丈夫。怪我も一番軽傷だったからね、今は憂凛ちゃんに付き添ってるよ」
「えっと、えっと、小夜ちゃんは」
「あの子は鹿屋先生の助手をしてるよ。今も一緒に憂凛ちゃんの治療に当たってるはずだね」
「えと、じゃああと、」
「落ち着け少年。柳川 恭くん。君はもうちょっとしっかり休みなさい。君が気になっていることがたくさんあるのは分かるけれど、ここは僕たちのお仕事だからね。任せてほしいな」

 そう言って、斯道は笑う。そんなことを言われても、今こんなところで寝ている場合ではないのではないか、という考えが頭を過る。知らない間に何もかも解決しているのだろうか。
 何も知らない間に。何も、できない間に。

「俺……」
「ま、起こしておいて悪いんだけど、本当にもう少しゆっくり寝た方がいいよ! その貧血はさすがにもうどうにもしてあげられないし、明日起きたら話をしようか。何か予定はあるかな?」
「ええと……明日から、部活……?」
「なら部活は残念だけどお休みした方がいいね。何の部活してるの?」
「陸上部っす」
「ほお、いいね。しかしじゃあ尚更休んだ方がいい。怪我は万全に治療してるけど、医者としては本当に大丈夫かきっちり確認もしたいところだから、治療に時間をもらえると有難い」
「……うす。ええと、今何時……」
『夜中や。心配すんな、朝に松葉に連絡入れたるから』
「ごめん。ありがと、ぶんちゃん」

 斯道を信用して大丈夫なのか全く分からないがしかし、彼が医者であり恐らく『ヒーラー』であるならば、言うことを聞いておいた方がいいだろう。それに確かに、治療は済んでいると言われても思い出してしまった分足を動かすことに恐怖心もある。
 覚えている。確かにあのとき、恭を逃がさない為に憂凛は恭の足を吹き飛ばした。両足をまとめて潰していた。訳が分からなくなるほどの激痛と、なくなった足の感覚。
 ――死んだ。全く実感はないが、確かに今生きているのが奇跡であることは、分かる。
 どんな顔をして憂凛に会えばいいのか分からない。まさかあんな風に憂凛に喰われるだなんて、考えてもいなかった。『人喰狐』になるかもしれないという危機感は抱いていたのに、自分が喰われるかもしれないということは考えてもいなかった。『此方』も『彼方』も関係なく、『彼方』になっても憂凛は憂凛だと思い込んでいた。何も変わらないと。
 前提がそもそも間違えている。『此方』から『彼方』になるということは、何もかもが変わってしまうということ。
 人を傷つけ、場合によっては人を殺す。そういうことに抵抗も、恐怖もなく、当たり前になってしまう。郁真が何の躊躇いもなく恭を殺そうとしたように。

「……ああ……」

 最悪だ、と唇を噛み締める。怖い。今更どうしようもなく、怖い。もしあの時恭が一人だったら、今頃こうして生きてはいない。何より自分を殺そうとした相手は、よく知っている憂凛だ。
 いつどうなってしまうか分からない――それが『此方』として生きるということ。姉が生きていた世界。恭が首を突っ込んだ世界。律が恭を遠ざけようとしてる世界。姉が死んでしまった、世界。
 最初から何も知らなければよかったのだろうか。この世界のことを知ろうとしたのが間違いだったのだろうか。何も知らなければ、『ヒーロー』の力を持っていることなど忘れてしまっていれば。
 そこまで考えて、違う、と恭は首を振る。今でも何も知りはしない。何も分かっていない。律がいつも恭が事件に首を突っ込むと怒る本当の理由も。『此方』として生きるからこそ存在する危険も。何一つ、分かってはいなかった。

「ゆっくり寝るといいよ、少年。朝には皆今より落ち着いているだろうからね」
「……ハイ」
「はっはー。怖がるこたあないさ。テキトーにやってて60年以上も『ヒーラー』で生きてる僕みたいなのもいるからねえ」

 そう言って斯道は笑う。その言葉に少しだけひきつったように笑ったものの、しかし胸の奥に生まれた感覚は全く消えそうにない。怖い。気を抜けば、体が震えそうな重いもの。
 ゆっくりと息を吐いて、目を閉じる。何故だかどうしようもなく、姉に会いたいと思った。


 翌朝。
 貧血の影響もあったのだろう、あの後すぐに眠ってしまっていたが、習慣のせいなのか6時前には目が覚めた。『分体』が連絡してくれていると言っていたもののやはり気になり、連には自分で連絡を入れた。【新年早々風邪ひいたから休む、ごめん】と送った返事が【お前って風邪引くの?まじ?お大事に】だったことに、いつも通りの日常を感じて少しだけ落ち着いた。
 そのままぼおっとしていても仕方がないので、体を起こしてみる。頭がくらくらする状態は随分落ち着いたようで、動くのは問題なさそうだ。床に足をつけて、そのまま立ち上がる。体に違和感はない。
 スリッパが見当たらずに裸足のまま、スマートフォンを手に恭は病室を出た。足が冷えるのはひとまず気にしていられない。きょろきょろと辺りを見回したところで、病棟には縁がない。自分がどこにいるのかもさっぱり分からない。

「……ねえぶんちゃん」
『おう』
「ゆりっぺどこにいるのかな。なーすすてーしょん? で聞いていいと思う?」
『……いやその前に、お前憂凛に会いに行くつもりなんか?』

 耳に届いた『分体』の声は心配そうだ。分かっている、喰われ、殺され、どうして生きているのかもよく分からない現状で、どんな顔をして憂凛に会いに行けばいいのか全く分からない。会ってどうするつもりだというのか。それでも憂凛に会わなければ、と思ってしまう。
 恭の様子をじっと眺めていた『分体』は、やがて大きく息を吐いて。そしてスマートフォンの画面が地図へと変わる。

『恭が今おるのはここ。憂凛の病室は上のここ』
「さすが。ありがと」

 言われた場所へと足を向ける。ぺたぺたと恭が廊下を歩く音だけが響いている。辺りは静まり返っていて、看護師の姿も見当たらない――何かどこかで朝の用意でもしているのかもしれない。誰にも会わないまま階段を上ってさて憂凛の病室は、と顔を上げたその時。

「うへあ」

 思わず変な声が出た。
 階段からは少し離れた、病室の扉とは反対方向の壁側に二人の人影。一人は琴葉だが、もう一人は見覚えがない。日本人らしからぬ顔立ちの、色の黒い男。二人の顔の距離がちやたらと近く見える。
 恭の変な声が琴葉には届いたのだろう。ちらりと視線が恭の方へと向いて、無言で男の顔に掌を当てるとそのまま押し退ける。

「邪魔、リノ」
「……いいところで邪魔が入ったなあ……」
「私としては助かったけど? ……おはよう、柳川くん。調子はどう?」
「あのえっとすんませんお邪魔しました」
「柳川くんちゃんと私の話を聞きなさい」

 呆れたように琴葉が笑って、恭の方へと歩いてくる。その後ろ姿に視線を送りながら、男はつまらなさそうに壁に寄りかかってしまった。

「……大丈夫そうね。変に術とか呪いとか付与されてない分何とかしやすかったって院長が言ってたけど」
「いんちょ……あ、おじいちゃん」
「ああ、会ったのね」
「ていうか琴葉先生あのひと」
「ん? ああ、アレ? 私の腐れ縁の『ウィザード』」
『恭、アイツがお前を助けてくれた訳分からん男や』
「え」

 その『分体』の言葉は、男――リノはにこやかに笑う。ひらりと手を振られてどうしようかと思いながら頭を下げれば、小さな笑い声。

「初めまして、ひよっこ『ヒーロー』くん。俺はリノ=プリドだ、よろしく」
「あ、えっと、柳川 恭っす。お世話になっちゃったみたいですいません……!」
「別に構わないよ。ちゃんと対価はもらってるし」
「……渚から連絡をもらった時はまさかこんな大事になってると思ってなくて。小夜乃に渚を任せていればもうちょっとどうにかなったかもしれなかったのに、ごめんなさい」
「あはは、コトハが俺のことを信頼してくれてて嬉しいなあ」
「いや、そんな、琴葉先生が謝るようなこと何もない……」

 琴葉は何も知らなかった。渚が連絡をしていなければ、小夜乃とリノがあの遊園地に来ることもなかった。結果がどうあれ、助けられたのは事実だ。
 さて、と呟いた琴葉は眉を寄せて、ちらりと後ろの病室を振り返る。

「……ここに来たってことは、憂凛に会いに来たってことで?」
「あ、うす」
「残念だけど今の柳川くんを、今の憂凛には会わせられない」
「……でも、」
「駄目です。渚がついてるから心配しない。そのうち会えるようになる」
「……琴葉先生、今、ゆりっぺは……」

 そのうち、と誤魔化されているということは、まだどうなるか分からないということだ。
 それとも、今の恭には憂凛に対する恐怖心があるからだろうか。それとも、本当は憂凛がとてつもなくひどい状態なのかもしれない。恭が知らないだけで大怪我を負っている可能性もある。
 憂凛はまだ、『半妖』のままなのだろうか。だとすれば、今恭が会えばまた同じことが繰り返される可能性がないとも言い切れない。

「イクマの方に会わせてあげたら?」
「ちょっと、リノ。口出さないで」
「だって彼には知る権利があるだろう? コトハ。それにイクマのことは彼のお友達が見張っているんだし」
「郁真くんもここにいるんすか?」
「そりゃあ、俺が全員回収したからね。全く、ナギサもコトハも、ついでにサヨノも人遣いが荒いったら」
「……アンタに言われたくない……一理あるけど……。仕方ないな、おいで柳川くん」
「えっと」
「心配しなくても宮内 郁真のナイフは全部没収してるし、万一また柳川くんを殺そうとするようならそれなりの処置はする。大丈夫」

 おいで、と手招きされて、恐る恐る琴葉の後ろをついていく。面白そうな顔をしながらその光景を眺めたリノはしかし一緒に来るつもりはないらしく、スマートフォンを取り出して何やら弄っていた。
 少し離れた病室の前、軽くノックをして中に入った琴葉に続いて病室に入ると、そこには『アリス』がいた。そして病室の中央のベッドの上には、郁真の姿。

「アリスちゃん!」
「元気そうね、恭くん。大丈夫? 怪我をしてるとは聞いてて戻りたかったんだけど、この子見張るって約束した手前戻れなくて」
「大丈夫。……アリスちゃんだって怪我してたじゃん、もう大丈夫?」
「私は大丈夫。気にしないで」

 笑う『アリス』にほっとする。この様子だと、恭に何が起きたのか『アリス』は詳しく知らないのだろう。ならば今は言わない方がいいと口を噤んで、恭はベッドの上の郁真へと視線を移す。
 郁真は目を開いて天井を見つめたまま、ぼんやりとしているようだった。心ここにあらずといった雰囲気で、襲ってきていた今までの郁真とは別人のようだ。

「……郁真くん」

 声を掛けてみれば、数秒の沈黙。ゆっくりとぼんやりした視線を動かした郁真が恭を見て、力なく笑う。

「……あー。やながわせんぱい」
「……だい、じょぶ?」
「大丈夫ですよー。何ですかー、復讐に殺しにでも来ましたー?」
「そんなブッソーなことしないっつの……」
「……はー。僕としてはー、橘先輩は手に入らないしー、柳川先輩は殺せないしー。挙句に佑月には裏切られるしー? 最悪の気分ですよー、ほんとー……」
「郁真くんとゆっちゃんって、どういう関係?」
「どういう関係も何もないですよー、単に僕が騙されただけですー。橘先輩を手に入れるの、協力してくれるって言うからー。……実際のところはー、佑月は、橘先輩を堕としてー、遊びたかっただけみたいですけどー」
「……そか」

 佑月にとって、郁真は都合の良い駒だったのだろう。裏切ったわけではなく、最初からそのつもりだった。郁真の憂凛に対する恋心を利用して、『実験』を完遂させるためだけに。
 そんなことは知らない郁真は、佑月の思い通りに動き続けたのだろう。恭を殺す、憂凛を『半妖』にする。その為だけに。

「佑月にねえ、聞いたんですよー、柳川先輩のこと」
「俺?」
「そう。柳川先輩が居る限りはー、ぜーったい、橘先輩が手に入ることはないんだー、って」
「……へ? どういう意味?」
「わ。柳川先輩、ほんっとわかんないんですねー? 鈍感ここに極まれり?」

 あはは、とおかしそうに郁真は笑う。何が分からないというのだろうか。そもそも、恭がいるから憂凛が郁真のものにならないというその言葉の意味が分からない。別段恭と憂凛は付き合っているわけではなく。
 そこまで考えて、あれ、と胸に引っ掛かったもの。

「無自覚鈍感のモテる男ってー、罪深い! と思いませんかー、ねえ、鹿屋せんせー?」
「私に同意を求められても困るんだけど」
「ふふ、思ってるくせにー」
「ちょ……ちょっと待って……」

 恭と憂凛は、恋人同士ではない。付き合っていない。それは間違いではない。告白した、されたという関係は二人の中には存在していないし、恭にとって憂凛は仲のいい友達だ。
 ――その筈だ。

「ひっどい人ですよねー? 僕ひと目見て分かりましたしー、多分ー、柳川先輩の周りの人もみーんな知ってますしー、気づいてないのはー、柳川先輩だけだと思いますよー。鹿屋せんせだって知ってるでしょー」
「……怒られるんじゃないの、憂凛に」
「ふふ、もうそんなのどうだっていいですよー、僕のものにはならないんだから」

 くすくすと笑いながら。それでも恭を見る郁真の目は、真剣そのものだ。

「橘先輩はー、柳川先輩のことー、好きなんですよ?」
「……好き、って」
「トモダチとしてー、じゃあ、ないですよ?」

 その言葉に、恭ちゃん、といつも笑ってくれる憂凛の表情を思い出す。恭といるとき、いつだって憂凛は嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれる。恭に向けて、笑顔をくれる。
 嘘だ、冗談だ、という言葉は口から出なかった。嘘でも冗談でもないことが分かってしまう。本当に全然気付いていなかった。しかしそういう風に言われると、思い当たる節は多くある。
 憂凛はいつも笑ってくれる。一緒に遊ぼう、二人で出かけよう、そうやって恭のことを誘う。近所ではないのにわざわざ学校まで迎えに来てくれることも多かった。部活の大会にも、何度か応援に来てくれている。
 それは、仲の良い友達だからという理由ではなく。

「っ……!」
「柳川くん!?」

 いても立ってもいられずに、気付けば恭は郁真の病室を飛び出していた。琴葉の声が後ろから聞こえたが、気に留めていられない。廊下を全速力で走って、先ほどまで琴葉とリノがいた場所の前の病室の扉を開ける。
 中にいたのは、渚。突然開いた扉に驚いたように目を丸くして、現れた恭を見る。

「柳川お前」
「ゆりっぺは、」
「……寝てるよ」

 低い声で呟いて、静かにしろとでも言いたげに渚は唇に指を当てる。中に入って覗き込めば、確かにベッドの上で憂凛は眠っていた。――灰色に染まった『狐』の耳は、そのままに。
 ばたばたと廊下を走ってくる音が聞こえる、恐らくは琴葉だろう。会わせられないと言われたのに会いに来てしまったことは申し訳ないと思うが、会わずにいる方が耐えられない。憂凛が眠るベッドの横に膝をついて、恭は憂凛の手を握りしめた。ぐっすりと深い眠りの中にいるのだろう、憂凛が起きる気配はない。
 憂凛をこんな風にしてしまったのは恭だ。悪いのは全部自分だ。何もかも気付かなかったから、こんなことになってしまった。

「……ゆりっぺ、ごめんな」

 佑月に好きなものを食べていいと言われた。だから憂凛は恭を食べることを選んだ。それは憂凛の『好きなもの』が、恭だったからだ。
 今まで彼女のことをどれだけ傷つけたのだろうか。付き合っているのかと聞かれて首を横に振る度、笑っていた憂凛は内心傷ついていたのではないだろうか。それだけではない。恭は今の今まで憂凛の気持ちに全く気が付いていなかった。無意識に傷つけたことも多いのではないだろうか。
 ――こんな自分は、喰われて当然だったのだ。憂凛には、恭を傷つける理由があった。

「……起きたら俺のこと、食べちゃってもいいから」
「おい柳川」
「ホントに。……俺、馬鹿でごめんな……」

 許されなくていい。だからどうか、いつものように元気に笑っている憂凛に戻ってほしい。恭にどれだけ怒りを投げつけられても構わない。その結果が恭を喰うことに繋がるのであれば、この先の未来など諦めて構わない。
 どうか恭を喰らったことが、憂凛の傷にならないことを。有り得ないと分かってはいても、そんなことを願うことしかできなかった。