My Variegated Days

05

 翌朝、帰宅してすぐに律は恭のコートとジャージの修繕をしてくれた。見た目にはあまり分からないようになって、器用だなあと感心してしまう。そのままいつものように早朝ジョギングに行こうとして、それは律と『分体』に思い切り止められた。よくよく考えれば、早朝トレーニングのジョギング中は完全に一人で行動していることになる。
 一人で行動できない、という制約はどうにも思っているよりも不便だ。何も出来ることがないので、律の睡眠の邪魔をしないようにごろごろとゲームをしていると、不意にスマートフォンが音を立てる。誰だろうとディスプレイを見れば、渚からメッセージが届いていた。

 【宮内 郁真 憂凛と同じ高校の1年だった 帰宅部
  陸上関係じゃなかったけど何でお前のこと知ってるのかはまだこれから調べる】
「……松崎先輩はええ……そういやぶんちゃん何も言わないな……」
『学校の名簿とかは潜り込むんにいちいち時間かかるねん、しゃあないやないかー』

 思わず口に出た呟きに、スマートフォンから文句が返ってくる。それもそうだ――『分体』は飽くまでもインターネット上の情報を調べるのに適している。学校の名簿がオンラインに上がっているようなことはないだろう。インターネットを通じて他のところに潜り込んでいくのは、どうしても時間は掛かってしまう。

「……ゆりっぺとゆっちゃんの後輩くんかあ……」

 進学校で有名な彼女たちの高校に、恭は他では全く縁がない。憂凛と佑月の知り合いだろうか。聞いてみよう、とSNSを開いて、しかしそこで思い出したのは昨日の琴葉との会話だ。憂凛に聞いてしまうと、昨日の出来事を話さないわけにはいかなくなってしまう。そうなると、話を聞く先は佑月に絞られる。

 【ゆっちゃんおはよー!
  ちょっと聞きたいことあるんだけど、起きてる?】

 それだけ送信しておいて、またゲームに戻る。この間から少しずつ進めているプレイ中のRPGは、謎解き部分が分からずにこのところ進捗が悪い。どこかにアイテムやヒントがあるのだろうとうろうろし続けていると、スマートフォンが音を立てた。

 【おはよう、柳川くん。朝から珍しいね】
「お、返事はええ」

 ちらりと時計を見れば、時計の針は9時を回ったところだった。この時間であれば、普通に連絡が取れる時間ではあるだろう。

 【後輩に宮内 郁真くんて子いる?】
 【知ってるよー うちの学校じゃ有名。1年の学年トップだよ
 その子がどうしたの?】
「……マジで?」

 思いがけない返答に、恭は思わず目を瞬かせた。いきなり切りかかってくるような相手が、学年トップの成績を収めているというのがよく分からない。何とも言えない敗北感を感じて、思わず溜め息が出てしまう。
 こうして佑月が知っている、ということは、郁真は本当に憂凛と佑月と同じ高校の生徒だということだ。渚の調査を疑うわけではないが、こうなってくるとますます恭との接点が分からない。陸上部であるならばまだしも、渚は帰宅部だと書いていた。

 【何か昨日声かけられてさ】
 【宮内くんに?】
 【うん、はじめまして、って。
  俺全然知らない子だったから、何だったのかと思って】
 【あ
  おもいだした】
 【なに?】
 【憂凛ちゃんで柳川くんのこと知ったんじゃないかなあ】
 【ゆりっぺ?】
 【うん
  憂凛ちゃん夏くらいに後輩に告白されたって言ってた
  それが宮内くんだった気がするんだけど】

 憂凛のことを好きな後輩。――これは勘違いで恨まれている可能性があるな、と恭は眉を寄せた。憂凛と友達になってからこの1年半、あちらこちらで恋人同士なのではないかという勘違いをされて、その度に否定し続けている。確かに憂凛と一緒にいることは多いが、それなら渚も一緒だろう、と恭は思う。何故自分なのかが分からない。
 こうなると、やはり憂凛にもそれとなく郁真のことを聞いてみるべきなのだろうか。
 しかし、憂凛を怒らせると本当に怖い。憂凛は一見普通の女子高生ではあるが、そのスピードと攻撃力は半端なものではないことを恭はよく知っている。『半人』であり、『狐』の力を振るう憂凛と万が一敵対した場合、惨敗する未来しか見えない。今回の件が知られれば――そして郁真が『彼方』の人間で『シャーマン』だと分かれば、恐らく彼女は『狐』の力を振るうことを厭わない。
 ――絶対に駄目だ。想像して首を振って。しかし、これで郁真のことは少し分かった。佑月にありがとう、とメッセージを送り返して、また溜め息ひとつ。これはまず、郁真の誤解を解く方から始めた方がいいだろう。
 とりあえず渚に報告しよう、と思い立って。どうせなら会って話した方がいいだろうと、メッセージを打ってみる。

 【松崎先輩、今から家出れます?】
 【めんどくさいし寒いから出ない】

 1分と経たずに返ってきた渚らしい返事に脱力する。このままSNSでメッセージのやり取りを続けてもいいが、ずっと画面を確認しているのも面倒だ。会うか電話するか、どちらかの方が良いだろう。ちらりと律に視線を向けると、律はよく眠っているようだった。しかし意外と神経質なところがある律のことだ、電話の声や家を出る音に気付けば起きてしまうだろう。
 律がいつも起床する時間までは、あと2時間ほどある。このままゲームをしながら2時間待ちつつ、渚ともメッセージでやり取りしていくべきか。しかし、恭としては今年中にこの件を片付けてしまいたい気持ちが強い。今日は12月30日――今年が終わるまで、あと2日。

「ぶんちゃん」
『おう何や?』
「郁真くんの家調べてもらっていい?会いに行く」
『は!? それはあかんで恭、また茅嶋に怒られても知らんぞ!?』
「いーの。ずっとこのままどうしよーって考えてるの俺らしくないじゃん、気持ち悪いし」
『あかん、お前また怪我したらどうするんや!』
「じゃあどうすればいいっつーの」

 このまま黙っておとなしくしておくのは、性に合わない。身に覚えのないことで殺されかけているのだから尚更だ。相手の正体は分かっている、恐らくだが恭が狙われている理由の推測も出来た。それなら後は、勘違いだから襲わないでくれ、と郁真のことを説得する以外に方法が思いつかない。

「……俺行ってくる」
『恭!?』

 どこに郁真がいるのかは、恭には全く分からない。しかし、恭を狙っているのであれば、適当に一人でうろうろとしていれば襲ってくる可能性は高い。どちらにしろ、早朝トレーニングをしていないので体も動かしたい。ジョギングを兼ねて外に出よう、と決めて。
 わあわあと騒いで恭を止めようとする『分体』を黙らせるためにスマートフォンの電源を落として、恭はそのまま律を起こさないようにそっと家を出た。それほど遠くに行くつもりはない、この辺りを適当にジョギングする程度なら道も分かっている。一人で家を出たことが律に露見すれば怒られるのは分かっているが、やはりじっとしていられない。
 どうにも耐え難い気持ちになってしまうのは、自分が原因で他人を巻き込んで、心配されているというこの状況のせいだろう。心の奥がむずむずして、どうにも気持ち悪い。普段恭が勝手に事件に首を突っ込んで怒られているのとは訳が違う。さっさと解決してしまって、一人でも出かけられる状況にしておきたい。
 ぐるぐると同じルートを何周かジョギング。どこか苛立っていたせいか、ペース配分もろくに考えずに走ったこともあって唐突に疲労が押し寄せてきて、恭は足を止めた。ぜえ、と上がった息を整える。

「……、くっそ……」

 襲いに来るならさっさと襲いに来て欲しい。けれどその気配はない。
 徐々に冷静になった頭で、何をやっているのだろうと自分に呆れてしまう。行き当たりばったりで、ろくに調べもせずに会えるかもしれない、という適当なアタリではどうにもならない。『分体』を黙らせるのにスマートフォンも置いてきてしまったし、持ち物も何一つ持っていない。スポーツバックも持ってきていないから、『アリス』もここにはいないのだ。

「……何焦ってんだ、もう」

 実家に帰る際の同行は、別段律に頼めばいい。律は自分で一人になるなと言った手前、恭を実家まで送り届けることを拒否したりはしないだろう。トレーニングはしたいが、出かけたい場所があるわけでもない。渚も調べてくれている、――頼めば皆、恭のことを助けてくれる。
 頭は冷えた。これはすれば、に怒られて反省した方がいいだろう。一人で考えてどうにかしようとするから、こんな風に煮詰まってしまうのだから。きちんと考えれば、どうにかする方法はきっとある筈で。

「帰ろ……」
「えー、帰っちゃうんですかー」
「……へ?」

 突然聞こえた声に振り返る。ひらひら、と手を振る少年、郁真の姿は塀の上。どうして今このタイミングで出てくるのかと思わず首を傾げてしまう。

「郁真くん、ちょっと話が」
「話ー?何のですかー」
「何で俺のこと殺したいのかなあって。……えっと、もしかしてなんだけど、ゆりっぺのことで何か勘違いされてないかなーと思ってさ」
「お?僕のことー、ちょっとは調べたんですねー? だったらー、昨日の今日なのにー、こんなところで一人で居るのはー、どうかと思いますよー?」
「いや、何か、俺悪いことしたんだったら謝るしさ、それに誤解だったら解きたいし……」

 恭の言葉に、郁真は笑う。楽しそうに――本当に、心底楽しそうに。

「謝る? 誤解? 何ですかそれー。面白いですねえ、柳川先輩ってー」
「……え、なに、なんで」
「勘違いしてるのはー、柳川先輩ですよー?」

 何を勘違いしているというのか。言葉の意味が分からない。恭が謝るようなことでもなければ、郁真が何か誤解しているわけでもないと言いたいのだろうか。
 それならば何故、恭は郁真に襲われたのか。

「柳川先輩にはー、死んで貰わないとー、困るんですよねえー」
「いやいや!? 俺死にたくねえよ!?」
「そうですよねえ」

 にこにこ笑いながら、それでも当たり前のように郁真の手に握られる、サバイバルナイフ。襲われる――そう思った瞬間に、一気に周辺が真っ暗になった。

「でもー、死んで、下さいね?」

 聞こえた声と同時に、銀色の光が閃いて。

「あ……っぶ、ねえ!?」

 反応があと一歩遅ければ、間違いなく切られていた。ぎりぎりのところで避けた郁真のナイフは、恭の喉元すれすれを掠めていく。完全に殺す気だった、ということを理解して、遅れて背筋が寒くなる。まだ午前中の時間帯に辺りが真っ暗になったのは恐らく『彼岸』の鑑賞なのだろう。――それならば、躊躇するよりも『変身』してしまった方が早い。

「……へーん、しんっ!」

 一声。大きく宣言すれば、それで恭の『変身』は完了する。本当であればかっこつけてバク宙でも披露したいところだが、まず失敗するのが目に見えている上に出来る状況でもない。
 瞬きをする間に、恭の服装が赤レンジャーのものへと変化していく。『変身』していれば身体能力は向上する。服を切り裂かれてしまう心配もない。

「おー。ひーろー、って感じですねー?」
「めっちゃ馬鹿にされてない俺!?」
「えー? してませんよお」

 多分。と笑って、そのまま変わらず郁真のナイフは恭を狙う。ぎりぎりのところで避けながら、さてどうしたものかと頭は動く。
 琴葉の言葉を信じるのであれば、こうして避けている限りは特に問題はない。しかし、反撃してしまうとそのダメージを恭も食らうことになってしまう。反撃ではなく、普通に攻撃するような形であればどうなのだろうか。そういった基準があるのであれば、このナイフが止まった時に攻撃すればチャンスはあるのかもしれない。こういったことを考えるのは得意ではないが、何も考えずにやっても怪我をするだけだということだけは分かる。
 避けてばかりではどうにもならない。左足を軸にしてブレーキ、思い切り体を反らすような形で避けると、それに対応できなかった郁真が転びかけるのが見える。体制を整えようと動きが止まったその瞬間に、回し蹴りの要領でその背中に蹴りを叩き込んだ。

「がっ……!?」
「コート切られた仕返し!」
「いっ……たたた、後輩いじめるなんてー、ひどくないですかー?」
「ひどいのどっちだよ!?」

 ナイフを振り回している人間に言われたくはないし、状況的にいじめられているのはこちらの方だ。蹴りを受けた郁真は、口を尖らせながらもそのまま踏み止まって体勢を整えている。一撃で黙ってもらう、というのは無理がある。

「なーんで俺が郁真くんに殺されなきゃいけないのか教えてほしいんだけどー。俺別に郁真くんと戦いたいわけじゃねえし」
「え? やです」
「何で!?」
「僕がー、柳川先輩をー、嫌いだから。理由なんてー、それでよくないですかー?」
「よくねえよ!?」

 思わず叫んだ恭に、あはは、と郁真は笑う。なぜこんなに楽しそうなのかがわからない。得体が知れない者に対して抱くのは、どうしたって恐怖の感情だ。
 左手と右手で何度もナイフを持ち替えながら、恭を真っ直ぐに見て。――一瞬表情が変わった、その瞬間。

「――ッ!」
「ほーら、しんじゃえー」
「ざ、っけんな……!」

 避けられない。防御しきれない。反射的に腕をクロスさせて体を庇ったせいで、腕にナイフが突き刺さる。痛い、どころではない。昨日に引き続き学習していない、と内心舌打ちをしてしまう。
 その状態でぐぐ、と体重をかけられてナイフが更に深く突き刺さって、思わず呻き声が漏れる。それでも郁真の手を必死で抑えて、彼の動きを押さえ込んで。このまま腕を切り裂かれてしまったら、傷が深すぎる。『変身』が解けたところでどうにかなる傷ではない。最悪このまま腕が吹き飛んでもおかしくはないのだ。
 今の恭では、郁真相手に一対一でどうにかするのは難しい。しかし持ち物一つ持たずに飛び出してきた今、恭には『分体』も『アリス』もいない――助けは呼べない。とにかく一旦郁真を引き離さなければ、このまま拮抗すれば押し負ける。楽しそうに更に体重を掛けようとする郁真の腹に膝蹴りを叩き込む。同時に恭の腹にも痛みが走るが、気にしていられない。

「ぎゃっ!?」
「ッ……!」

 郁真の手がナイフから離れて、恭からも離れていく。腕に突き刺さったままのナイフに加えて腹への痛みで、立っていられない。膝をついて、深呼吸。
 ナイフを抜けば、出血で下手をすれば意識を失う。そうすればもう抵抗するすべがない。しかしこの痛みで何事もなかったかのように戦うことなど出来ない。しかしこの状況なら郁真の手元にナイフはないのだから、ひとまず武器は奪えている。それなら、もう逃げるしかない。
 ――何処に。考えて苦笑ってしまう。辺り一面真っ暗で、『彼岸』の『領域』の中に閉じ込められている今、恭一人の力でここから抜け出すことなど出来ない。なら、どうするのか。このままでは本当に、殺される。

「いっ……たたた、何てことするんですかあ、柳川先輩ー」
「……いや、それ、こっちのせりふ……」
「あは、しんどそう。とっととー、殺してあげますねー」
「……なんでまだナイフ持ってんの……?」

 世の中そんなに甘くはないらしい。郁真はポケットの中から2本目のナイフを取り出して、また左右で持ち替えて遊んでいる。余裕綽々が透けて見えるそれに、苛立ちが募る。理由もわからないまま殺されるなど御免だ。どうにかこの状況を打破しなければ。しかし、ここには恭と郁真しかいない。この怪我では、既にまともに戦うのは厳しい。もう駄目なのだろうか。どうすることもできないのだろうか。
 一瞬諦めかけた、その次の瞬間。

「えっ」
「……?」

 暗闇が急に晴れて、辺りの風景が戻ってくる。郁真の表情が急に焦りだしたのが見えて、逃げるつもりなのか恭に背中を向けて――動きが止まった。何だ、と思いながら目を凝らせば、その向こうから歩いてくる人影がひとつ。

「……り、っちゃんさん、」
「ったく、やっと見つけた……。一旦『彼岸』には退場してもらったけど、君の『カミ』? 宮内くん? だっけ?」
「うぃざーど……っ!?」
「あのさあ俺今寝不足で超機嫌悪いんだよね」

 本当に酷く機嫌の悪そうな声で、表情で。何のためらいもなく銃口を郁真へと向けて、律が呟く。助かったと思うと同時に、胸の奥がざわめく。
 ――結局、こうして助けてもらうしかないのだ。一人ではどうすることもできない。先走ったせいで更に迷惑を掛けているだけだ。何も考えずに暴走して、戦ってみたはいいものの全く歯が立たずに、郁真を止める方法さえ分からなかった。
 あまりにも無知な子供であることを、こんな形で思い知らされる。

「邪魔、しないで、ください」
「悪いけどするよ。俺その子の保護者みたいなもんだし」
「じゃあー、あなたも、殺しますっ」

 郁真が走る。律は動かない。じっとその姿を見つめて――ナイフが振り上げられた瞬間、引かれる引き金。雷弾が郁真を直撃して吹っ飛ぶと同時に、律も同じような怪我を負ったのも見える。恐らく予想していたことなのだろう、律は顔色一つ変えない。

「ちょ……、りっちゃんさ、大丈夫、っすか」
「黙ってて」
「……あ」

 擦り傷のような傷をあちこちに負って、それでも不機嫌な表情を全く変えないまま律は吹っ飛んだ郁真へと歩みを進める。再度郁真に向けられた銃口は、眉間すれすれに。そしてそこで、律は表情を変えた。にこりとした笑顔、しかし全く目は笑っていない。本気で怒っているのがよく分かる。銃口を向けられているのは自分ではないのに、どうしようもなく逃げたくなってしまう。
 郁真の表情が初めて、怯えに染まる。

「……俺さあ、結構『シャーマン』とは相性悪いんだよね。大体ダメージ返ってきちゃうからしんどいし、痛いし。でも宮内くん、自分の力を把握してるんだったらちゃんと理解してるよね? 今この状況で俺が引き金を引いたらどうなるのか、ってことくらいはさ」
「あ、あ……」
「俺にダメージは返らない。宮内くん、君だけがダメージ喰らって痛い目に遭うよね。それくらいのことは理解出来てるよね? ……というわけで、選ばせてあげる。今ここで俺に撃たれて無力化されて契約結ばされて何もできなくなるか、とっとと逃げて大人しくするか」
「ひっ……」
「もう一回だけ教えておいてあげるけど、俺、今、超機嫌悪いんだよね?」
「あ、っ……わああああああああ!?」

 本気で命の危機を感じたのだろう。郁真は悲鳴を上げて、恭には目もくれずに一目散に走って逃げていく。彼とてまだ15、6歳の少年だ、これほど圧を掛けられたのは初めてだったのかもしれない。走り去っていく郁真の背中を見送って、律は溜め息ひとつ。

「……そんなほいほい契約の魔術組まないっつーの」

 言いながら、律の視線が恭に向けられる。変わらず不機嫌なそれに、無意識にびくりと体が竦んだ。先ほどまでの怖いだけの笑顔は消えたが、無表情のそれはやはり、怖い。

「恭くん」
「……はい」
「言い訳するならとりあえず聞いてあげてもいいけど?」
「……ごめんなさい……」
「……ったく」

 口笛ひとつ、手の中から銃を消して、律は恭の前にしゃがみこんだ。恭の腕を取ると、そのまま一気にナイフを引き抜く。途端にどばりと血が溢れ出し、激痛に悲鳴を上げそうになるのを必死で嚙み殺していると、律の指がとんとん、と恭の傷口を叩いた。不思議とそれに痛みを感じない、と気付いた時には、再び聞こえる口笛。
 ゆっくりと――本当にゆっくりとだが、傷口から痛みが引いていく。アスファルトへと零れた筈の血も綺麗に消え失せて、まるで何事もなかったかのように戻っていく。治療してくれているのだと気付くまで、数秒。

「とりあえず応急処置。『変身』してるときに負ってる傷だから、この程度でも2、3日で治るから。……人避けはしてるけどそんなに長くは持たないし……とりあえず『変身』解いて」
「……うす」

 無表情のまま低い声で呟く律の言葉に反抗する理由は何一つない。『変身』を解きながら改めて律の姿を見れば、見慣れた部屋着の白いTシャツに黒のスウェットの上にモッズコートを1枚羽織っただけの姿で、恐らく恭が家を出たことに気が付いて慌てて追いかけて探してくれていたのだろうことがよく分かる。
 いっそ怒鳴られた方がマシだった。どれほど心配を掛けてしまったのだろう。
 ――どうしてこんなに無力なのだろう。あまりにも歯がゆくて、恭は目を伏せた。