Colorless Dream End

08

 恭が目を覚ますと、そこは茅嶋家だった。椿が心配そうに覗き込んでいたのと目が合って、ぱちりと瞬く。状況が全く理解できない。

「……ばっきー」
「はい、椿です。目が覚めて何よりです、恭さん。どこか痛むところはありませんか?怠いとかしんどいとか」
「……分かんね……俺何でここにいんの?」
「一緒に居た方が病院に連れていってくださったそうなんですが、鹿屋先生も院長先生もご不在とのことでカルネヴァーレさんがご連絡を受けまして、それで迎えに。頭痛で倒れたとお伺いしましたよ」
「ずつう……」
「丸一日眠ってらっしゃったんですよ。目が覚めてよかったです」

 そんなことを言われても、やはり何のことなのか分からない。丸一日。奈瑞菜と喋っている最中から時折頭が痛かったことは覚えている。そして彼女と共に渚に会いに行って――そして。
 そこまで考えた途端、ずきりと頭が痛む。考えるどころではない。思い出すことができない。

「……だーめだあたまいたい……」
「まだもう少しゆっくり横になっていてください。無理されない方がいいですよ」
「うん……」

 言われるがままに、体の力を抜く。どうしてこんなに頭が痛くなってしまうのか、全く分からない。そもそも渚と会って何を話していたのかも思い出せない。渚がどうして『彼方』を襲っているのか、そんな話を聞いたのかどうかさえ。
 何も分からない。何も思い出せない。それでもただ、何かとても大切なことを忘れているような気がする。

「……ばっきー」
「何ですか?」
「俺、どっかおかしいのかな」

 恭の質問に、椿は面食らったように動きを止めて。そしてみるみるうちにその表情が心配そうなものへと変わっていく。
 聞く相手を間違えたかもしれない、と思ったのは彼が心配性の人間であることを思い出したからだ。妹である桜が、今でこそすっかり元気とはいえ幼少時は重い病気を抱えていたということもあるのだろう。病気や怪我に対する反応は敏感だ。

「……おかしいと言えばおかしいと思います。まず恭さんが頭痛で倒れるだなんて有り得なさそうな話ですし、そんな不安そうな表情をされる恭さんは見慣れませんのでやはりどうにもおかしな感じはしますから。いつも意味不明なくらいに自信満々なのに」
「待って俺ばっきーにどういう人間だと思われてんの」
「僕では専門外かとも思いますので、一度雪乃様かカルネヴァーレさんにきちんと診ていただいてはいかがでしょう。……やはり心配ですし」
「そうしようかなー……」

 何か魔術的なものであれば、雪乃ならすぐに見抜いてくれるだろう。モニカも『エクソシスト』としては実力のある人間だ。通常こんなに頭痛がすることはないのだし、何らかの変な術が仕掛けられた結果なのであれば二人なら見抜くことはできるだろう。
 恭自身、自分の記憶力のなさは理解しているが、これほどすっぽりと記憶が抜け落ちているということはさすがにない。頭痛のせいで前後の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまった可能性はあるが、ならどうしてその頭痛は起きたのかという問題に立ち返ってしまう。

「恭さんが起きたらお腹を空かせているだろうから、って桜が食事を作ってくれていますよ。食べられそうなら一緒にいかがですか?」
「食べる」
「……あ、元気そう」
「んー、頭は地味に痛いなって思うけど……うん、大丈夫、だと思う」

 気になることは多いが、腹が減っては何とやら。食べるものがあるなら食べておきたい。
 桜の食事を食べる前に、ふらりと出てきた『分体』に律に報告を入れろと言われてすぐに電話をする。聞きたいことがあると言われたそれに心当たりがなく思わず首を傾げたものの、考えたところでどうにもならない。そもそも現在スペインにいる律がどうして急に恭に聞きたいことができるのかも分からないのだから、考えるだけ無駄だろう。
 電話が落ち着いてから桜に食事を振舞ってもらって、落ち着いたので帰ろうとすると今度は椿に怒られた。雪乃かモニカに会ってから帰った方がいいというその意見はもっともだったので、大人しくベッドでごろごろと寝転がりながら二人の帰宅を待つ。ここで帰ってしまったら、次にいつここを訪れるかは分からない。会えないまま二人が海外に出てしまう可能性もないわけではない。

「ねーぶんちゃん、俺が寝てる間ひびちゃんか小夜ちゃんから連絡あったー?」
『響はちょこちょこ。三条は連絡ないし知らん』
「……ぶんちゃんって何でそんなに小夜ちゃんのこと嫌いなの」
『『彼方』側の連中はどうにも好かん!』
「もー……」

 出会った当初の頃から、『分体』はあまり小夜乃にいい顔をしない。小夜乃もそれを分かっているので、どうにもうまくいかないままだ。お互いに歩み寄りはしない。小夜乃は悪い人間ではないと思っている恭からすれば仲良くしてほしいなとおもうのだが、それが難しいことであることくらいは分かっている。
 ――何より、恭からすれば小夜乃というのはあまり『彼方』の人間っぽく感じることがない。琴葉と一緒にいるからなのか。『彼方』の知り合いはどこか螺子が外れているようなところもあるが、小夜乃に関してはそういったこともあまり感じたことはなかった。
 小夜乃に連絡してみよう、とスマートフォンを手に取る。怒った顔文字をディスプレイから出している『分体』のことは押し退けて、電話番号を呼び出す。静かに響くコール音が続くもののそれが途切れる気配は全くなく、そのうち留守番電話い切り替わってしまった。仕方がないのでSNSで手が空いたら連絡してほしいとメッセージを残しておく。
 何か知っている望みは薄いが、しかし小夜乃は渚のことを知っている。話をすれば恭が気付いていない何かに気付いてくれるかもしれない。響から小夜乃に何かしら連絡はしているかもしれないが、響は渚のことを知らないことを考えれば上手く小夜乃に伝わるかどうかも不明瞭だ。
 さてどうしたものか、と考えながら寝返りを打つと同時、こんこんと響く扉のノックの音。慌てて跳ね起きると、入ってきたのはモニカだった。

「モニカさん! お疲れ様っす」
「お疲れ様です。倒れたと聞いたときはどうなるかと思いましたが、すっかり元気そうですね」
「ちょー頭痛かったんすよ、これでも。今は全然平気っす」
「それならばよかったです」

 モニカはそのままベッドの横に置かれている椅子へと腰を下ろした。それを見て恭も姿勢を正す。無感情にも思える青い瞳が、真っ直ぐに恭を見つめて。

「……ああ、成程。これは相当意識して注視しないと気付きませんね……」
「へ」
「リツではまだ少し日常で気付くのは難しいでしょうか。ユキノでもこれは何か術を掛けられている可能性があるという前提がなければ手厳しそうな……、難しいですね」
「えっと? モニカさん?」
「キョウ。あなた、『サイコジャッカー』か『ディアボロス』に心当たりはありますか?」

 唐突に聞かれても、何のことだか分からない。きょとんとしたところで、モニカの無表情は動かなかった。――『サイコジャッカー』か『ディアボロス』。心当たりがないとは言えない。

「……何でそんなこと聞くんすか?」

 小夜乃は『ディアボロス』だ。そしてモニカは『エクソシスト』であり、ある種の意味では『ディアボロス』の天敵でもある。さすがにすぐに小夜乃のことをモニカに伝えるのは言いづらい。それならばまだ律に小夜乃の話をする方がしやすいだろう。
 モニカは全く表情を変えない。恭では彼女の表情は読み取れない。何を考えているのかが、分からない。

「キョウは今、何らかの術が掛けられている状態です。その正体が果たして何なのかと問われれば私では分かりかねますが、恐らくは他者を操る類のものと見て間違いはないかと。そうなると『サイコジャッカー』か『ディアボロス』である可能性が高いと思われます。『憑物筋』の『憑依』も他者を操ることは可能な術ですが、あの術は操るというよりも乗り移るといった方が正しいのでこの場合は除外していいでしょう」
「ごめんなさい全然何言ってるか分からない」
「……これでも分かりやすく話しているつもりなのですが」

 正直面倒だとモニカに思われていないだろうかと思いつつ、恭は考える。
 何かの術が、自分に掛けられている。とすれば、その術のせいで頭が痛くなるのだろうか。しかし術を掛けられているというのであれば、それは何故なのか。

「――ッ」
「キョウ」
「……っ、て……」

 ずきん、とまた頭が痛む。さすがにこうも続いてしまうと鬱陶しい。奈瑞菜といたときはどうして頭が痛くなったのだったか。あのとき自分は何を考えていたのか。思い出そうとするとずきずきと頭が痛んで、全く思い出せない。
 誰が、何のために。犯人が『ディアボロス』だとすれば一番可能性が高いのは小夜乃だ。けれど小夜乃が害意を持って恭にそんなことをするとは思えない。彼女はいつも恭を心配してくれている大切な友人で、何より命の恩人だ。恭のことに呆れたり怒ったりしながらも、ずっと一緒に居てくれている。
 頭痛の正体を、突き止めなければならい。そうでなければ小夜乃は無実だと信じてもらえない。今小夜乃のことを話せば、絶対に疑われてしまう。けれど、どうやって小夜乃の無実を証明すればいいのだろうか。

「……あの、モニカさん」
「はい」
「あのー……どうせバレてる気がするから言うんすけど、心当たりは、あるっす。でも、ちゃんと確認したい……俺、信じたいし。それから話してもいいすか?」
「私は貴方をこのまま野放しにしてリツに怒られるつもりはありませんが」
「だいじょぶ、モニカさんには絶対迷惑掛けない。頑張る」
「……そうですか。では、実は今朝リツから最短三日で仕事を片付けて一時帰国したいとの連絡がありました」
「は?」

 恭の記憶が正しければ、律は一か月ほど滞在する予定でスペインに向かったはずだ。確かに電話ではなるべく早く帰るといったようなことを言っていた気はするが、3日というのは正気とは思えない。それでも律が自身でそう言ったのであれば、意地でも片付けて帰ってくるのだろう。

「タイムリミットは……そうですね、リツが向こうで帰りの飛行機に乗るまで、ということでいかがでしょうか。それ以降になってしまうようであれば、私はどんな手段を用いてでもその『心当たり』を聞かせていただきます」
「……それ……は、例えば……?」

 恭の問いに対して、モニカが無言で取り出したのは彼女が普段使っている獲物――銃。彼女の細腕には凡そ似合わないようなそのデザートイーグルは、律が持っているもののように魔術専用に改造されたものではない。その銃の中にはきっちりと実弾が込められている。
 それを突き付けられた場合。それが分からないほど、馬鹿ではない。

「が、ガンバリマス……」
「はい、頑張ってください」

 モニカは無表情のままなだけに――その脅迫は、あまりにも怖かった。


 すっかり忘れていたのだが、試験期間中だった。
 倒れている間に一つ必修の試験を欠席してしまっており、朝一番で大学に向かって講師に引っついて回って謝罪を繰り返し、どうにかレポート提出で多少見逃してもらえることになった。さすがに単位を落として色々な人に怒られることは避けたい。
 調べたいこともやりたいことも山のようにあるがとりあえずはレポートが先決だ。大学近くの喫茶店の一席を陣取って、ああだこつだといろんなものを引っ張り出してひっくり返し、必死でレポートを書く。それが3分の2ほど仕上がったところで、ふと思い出して手が止まった。

「ねえぶんちゃん、なっちゃんの連絡先って」
『勝手に調べてきてええんやったら行ってくるけど』
「ん-……いややっぱ大学院まで……、でもそれだったら松崎先輩とこ行った方が早いかなあ……どう思う?」
『そない言うても松崎と会うたとき何が起きたんか覚えてへんし、お前また頭痛なってもうたらどないすんねん。あと茅嶋にも言われたやろ、一人で行動すんな。まず響に連絡取れ』
「あ、そうだった」

 どうにも肝心なところが意識から抜けている。なるべく怒られたくはない。響の電話番号を呼び出して、発信。1、2回のコールですぐに響は電話に出た。

『もしー。生きてっか恭』
「辛うじてー。ごめんひびちゃん、『彼方』狩りの件のこともあんだけど、ちょっと俺の頭痛の原因調べるの付き合ってくんない?」
『……?ああ、お前頭痛で倒れたってぶんちゃん言ってたな』
「そうそう。『エクソシスト』の人に診てもらったんだけどさ、何か俺に術掛かってるらしくて? んで、『サイコジャッカー』か『ディアボロス』に心当たりないかって聞かれて」
『……あー』

 唸り声。そのまま電話の向こうの響の声が消える。ざらざらとした音だけが聞こえて、恭は眉を寄せた。不自然な沈黙が、やたらと心地が悪い。

「……ひびちゃん何か知ってたりする?」
『……ええと、あのな、恭。その件なんだけど』
「うん」
『あー……俺怒られるな……』
「ひびちゃん?」

 ぼそぼそと独り言のように何かを呟いている響に、眉間にしわが寄る。首をかしげるものの、この様子では明らかに何かを知っていることくらいは分かってしまう。
 そもそも、響が知っているのはおかしなことではない。響は『サイキッカー』だ。恭に触れたときにたまたま術が掛けられた経緯を『見て』しまったことがある可能性もある。何にしろ知っていてそれを恭に教えなかったのは、何かしら理由があるはずだ。恭に言い難いのであろう、何かの理由。
 頭をよぎったのは、モニカの言葉。『ディアボロス』。昨日小夜乃にした電話もメッセージも、折り返しは何もない。いつもであれば気付けばすぐに連絡が返ってくるだろうそれに、何の音沙汰もない。それは今の状況では疑いを深めてしまう。

「ひびちゃん、何か知ってるんだったら教えてほしい。俺今ちょっと小夜ちゃんを疑えって言われてるような状況にいて、それすっごい嫌」
『……ごめん、恭』
「ひびちゃん」
『分かった、顔見てちゃんと話しよ。恭今どこいる?』
「大学の外の喫茶店」
『おっけ、すぐ行く。そこ動くなよ』
「りょーかい」

 響が知っていて、恭が知らない。そして言い難いこととなれば、やはり恭に術を掛けているのは小夜乃だということになるのだろうか。しかしそれは何のために。どうして。全く理解が追いつかない。
 他の『ディアボロス』や『サイコジャッカー』の仕業の可能性がないわけではない。けれどそれであれば響が言いづらい理由がない。考えるとどんどんしんどい方向へと向かっていってしまう。
 ぼんやりしていたのだろう、かたんと突然響いた音にはっと体が反応した。顔を上げると、そこに立っていたのは一人の青年。恭を見下ろして、にこりと微笑む。

「わ、お久しぶりですねえ、柳川先輩。お元気そうでー、何よりです」
「……郁真くん」
「あは、僕のことは覚えてるんですねー?」

 久しぶりではあるが、見間違えはしない。とある事件で殺されかけはしたものの、そのままずるずると付き合いは続いている。律の事件のときには彼に力を貸している『彼岸』の力を借してほしいと頼み込んだこともある。
 しかし、恐らく最後に会ったのは昨年の春頃だっただろうか。随分と久しぶりにその姿を見たな、と思いつつ、ふと郁真の言葉に引っ掛かりを覚えて恭は首を傾げた。

「……僕のことはって何?俺馬鹿だけどさすがに郁真くんのこと忘れたりしないな……?」
「知ってますよー。もーほんっと、サイアクですよねえ。柳川先輩に会うなーってきっつーく言われて、殺しに行くのも控えてたんですけどー、理由がねえ……」
「へ?」

 不穏なワードはひとまず聞かなかったことにして――しかし、どうして郁真が恭に会うなと言われれいたのだろう。実際郁真は事あるごとに恭を殺そうとするので、その現場によく遭遇する響にも小夜乃にもよく怒られていた。
 そこまで考えて、ふと気づく。自分はどうして、いつもそうやって郁真に殺されかけるのか。

「――ッ!?」
「あー。頭、いたそーですねー? そのまま頭割れて死んじゃうとかはー、ナシですよー? 柳川先輩を殺すのはー、僕ですからね?」

 平然とそんなことを言いながら、当然のように郁真は恭の前の席に腰を下ろす。椅子に腰かけて、注文を取りに来た店員にのんきな声でオレンジジュースひとつ、と注文する声が聞こえる。
 頭が痛い。恭の考える力を根こそぎ奪っていくかのように、ずきずきと痛む。何故。どうして。この痛みの先に、一体何があるというのか。

「まったくー、つまんない男に成り下がったもんですねー、柳川先輩ってばー」
「……何の、話、」
「ねえ、ホントに覚えてないんですかー? 僕と初めて会った時のこともー、あの遊園地での話もー、なーんにも?」
「郁真くんは、急に、襲ってきたんじゃん……」

 郁真との出会いを思い返す。本当に急に襲われたことは間違いがない。電車の中に突然現れた郁真に切りかかられて、あのときは『アリス』のお陰で命拾いしたのだ。
 ――『アリス』。『彼岸』である彼女は、いつの頃から恭の傍からいなくなっていた。それは何故だったか。

「いっ……!?」
「あはは、いったそー。イイ顔してますねー、柳川先輩。まっだまだ、いきますよー? 僕が柳川先輩を殺したい理由はー、何だったでしょーうか?」
「……んな、こと」
「知らないなんて、言わせませんよ?」

 にこにこと笑っていた郁真の表情が、すっと真剣な表情へと切り替わる。真っ直ぐに恭を見据えている瞳は、敵意と殺意に満ちている。

「何年経っても僕の大好きな人の心を持ったまんまのクセに、忘れるなんて許しません」
「……いくま、くん?」
「ぜーったいに、許しませんよ。……思い出せないなら、死んで下さい。今此処で、殺してあげます」

 郁真の右手の中に、刃の出ていないサバイバルナイフが見える。こんな人目につくところで、とは思ったが彼には関係ない。本気で今恭を殺す気でいるのだろう。郁真はわざわざ、場所など選ばない。
 殺されるわけにはいかない。死にたくはないし、死んではいけない。ここで死んでしまったら。

「ぐっ……」
「ああ、ほんっと、なかなか厳しいモンですねー。もうちょっと頑張って下さいよう、柳川せんぱーい」
「……は、ああ、も、うっとーしー……ッ」
「あは。……ねえ柳川先輩? 僕ね、ずーっと。ずーっと見てきてるんです。今も、ずうっと。……いっつもあったかい笑顔で、でも、時々すっごく寂しそうで、壊れそうな顔する僕の大好きな人を、ずーっと、ね」

 郁真の好きな人。確かにその人を知っている。『彼女』のことを、知っている。
 忘れるわけがないと思うのに、それなのに全く思い出せないのは。こんな風に頭が痛くなってしまうだけなのは、どうしてなのか。ひどい頭痛と吐き気に意識がぐらぐらと揺れ始める。ここままではまた何も分からないまま倒れて、そしてきっと目が覚めたときには郁真と何を話していたのか忘れてしまう。
 だからきっと、今、思い出しておかなければならない。

「宮内!?」
「ありゃ。これはタイムオーバーですねえ。こんにちはー、えっとー……誰でしたっけね……あー、おとなかさん?」
「お前何でここに、つーか恭に会うなって言われたろこの馬鹿!」

 喫茶店に入ってきて早々声を荒げた響に、店内の視線が向いているのが分かる。それは分かるが、今の恭にはどうすることもできない。動けない。
 気分が悪い。気持ちが悪い。頭が痛くて、吐きそうで、割れそうで、どうしたらいいのか全く分からない。

「っ、たく、マジ余計なことしてんじゃねーよ……っ、恭、落ち着け。ゆーっくり息しろ、大丈夫だから。な?」
「……ひび、ちゃ……」
「大丈夫」
「……なーにが大丈夫なんですー? そのまま忘れさせとくつもりなんですか、馬鹿みたいですねー」
「こっちにはこっちの事情ってもんがあんだよ」
「そちらの事情なんてー、僕にはなーんにも関係ありませんよー。あ、オレンジジュース僕ですー。どうぞお気になさらずー」

 あはは、と笑う郁真の声。視界が揺れ始めているのが分かる。恭を落ち着かせようと背中をさすってくれている響の手に、少しだけ安心感を抱いて。
 響の言う、『こっちの事情』。それはやはり、響は何かを知っているということだ。

「……ひびちゃん、なに、しって、んの……」
「……恭」
「俺、何、わすれ……て、なんで、あの子のこと、……ッ」
「馬鹿、今それ以上思い出したらお前またぶっ倒れんぞ、考えんな」

 返ってきたその言葉で、確信する。響は恐らくすべて知っている。恭に掛けられている術が何なのか、恭が何を忘れてしまっていて、どうしてそれを忘れることになったのか。ずっと教えずにいたのは、恭がこういう状態になってしまうことを分かっていたからだろう。
 響が把握しているなら、やはり、術を掛けたのは――小夜乃なのか。

「思い出してー、ぶっ倒れたらいいじゃないですかー。柳川先輩が忘れてるの、ほんっとムカつくんですけどー」
「宮内」
「ひっどい話だと思いません? ……だって橘先輩はいつだって柳川先輩のこと、ずーっと想って生きてるのに、柳川先輩は橘先輩のこと忘れてる! とか、有り得ないでしょー?」
「宮内!」
「たち……、ばな、」
「恭駄目だ、思い出すな!」

 頭の中がぐるぐると回る。
 記憶がぐるぐると回る。
 次の瞬間、弾けるように思い出したのは。

「や、め、」
「恭、駄目だ落ち着け、思い出すな、頼むから!」
「あし、が……っ」

 ――足が、消えて、なくなる。