Colorless Dream End

07

「……聞いたことのない名前ですね」

 耳馴染みのない名前に、律は眉を寄せた。シャロン=マスカレード――律の記憶の中には引っ掛からない名前だ。そうか、とリノは曖昧に笑って、少し悩むように宙へと視線を向ける。

「俺は昔彼女に片翼をもがれてね。この間返してほしくて交渉したんだけど交渉が決裂して、ついでにもう片翼ももがれて今や翼のない鴉で困ってる」
「どうにも大体あなたが悪い気がするのは気のせいですかね……」
「で、まあその彼女から翼を取り返すのを手伝ってほしい。彼女は『エクソシスト』や『カーディナル』たちの太古のトップシークレットのひとつでね。今の面子はほとんど知らないんじゃないかな」
「……つまりそのシャロン=マスカレードという人物は『ディアボロス』ないし『デーモン』ですか?」
「厳密に言えば違う」
「じゃあ『エクソシスト』?」
「彼女のことをそうやって定義するのはとても難しい。シャロン=マスカレードはそういう存在だ、としか説明しようがないな。まあ何でもいいんだよ」
「何でもって」
「俺は彼女を倒したいわけではないからね」

 翼を取り返せたらそれでいい、とリノは笑う。討伐や捕縛が目的なのではなく、奪われたものを取り返す――それがリノの希望ということだ。しかし交渉しても返してもらえない、というのは何かしら他に理由があるような気がしてしまう。倒す気はない、ただ返してほしいと交渉したところではいそうですかと返してもらえるようなものではないのだろう。
 何者なのかよく分からない人物。『エクソシスト』や『カーディナル』という単語を出したときに、厳密に、という単語をつけて違うと言ったリノの言葉には含みがある。そうでもあるが、そうでもないということなのだろうが、それ自体が何を指しているのかは見当がつかない。

「そのシャロン=マスカレードという人物は、どういう人物なんですか?」
「白い仮面を被った長くを生きている女性。まあ、可哀想な子なんだけれどね」
「可哀想?」
「寂しがり屋の、孤独を強いられた可哀想な子」
「……どういう意味です?」
「そういう意味。この件に対してリツに頼みたいのは、この話を恭にして欲しい、ということだ」
「恭くん?」

 何故ここで恭の名前が出てくるのか。そして何の話を恭にしろというのか。シャロン=マスカレードにリノの翼を返してほしいということを、恭に伝えればいいということなのだろうか。全く意味が分からない。律の表情が険しくなるのを見て、リノがまた笑う。何となくこの人は性格が悪いな、と思ってしまう笑顔。

「……まさかとは思うんですけど、もしかして恭くん、そのシャロン=マスカレードと知り合いですか」
「お、ご名答」
「冗談でしょう? 確かにあの子、誰とでも仲良くなりますけど」
「これが冗談じゃないんだよ、リツ。彼のお友達の一人に『ディアボロス』がいるのはご存じかい? 今仲良くしている大学の同級生の一人だよ」
「……あの馬鹿」

 恐らくわざと黙っているな、と律は溜め息を吐く。別段恭が『彼方』と仲良くすることを止めたことはないし、そもそも恭の交友関係に口出しをする気もない。保護者のような立場ではあるが、もう恭も成人した大人だ。いちいち全ての交友関係を把握するような立場ではないし、『彼方』の友人の話を聞けば律がいい顔をしないことは恭も重々承知しているはずだ。友人のことで嫌な顔をされるのは、恭とて複雑だろう。
 ――しかし、どうして。そんな一部のトップシークレットになるような存在と仲良くなっているのか。

「頭が痛そうだね、リツ」
「……だいぶと。初耳なもので」
「はは。彼が彼女と知り合った経緯で色々あったのさ、責めるようなことではないよ。とはいえ、キョウにはシャロン=マスカレードと言っても誰のことだかは分からない。今の彼女の名前は『サンジョウ サヨノ』という」
「さんじょう、さよの」
「そう。コトハの親友で相棒だ」
「……いやもう何もかも全然話が繋がらない……」

 シャロン=マスカレード。サンジョウ サヨノ。初めて聞く名前に、琴葉の名前まで出てくるとますます混乱する。頭の整理が追い付かない。

「まあ、心配せずともサヨノは悪い子じゃあない。俺と仲が非常に悪いってだけで、キョウとも仲良くやっているしね。……まあ、それでキョウの頼みならサヨノも聞いてくれるんじゃないかと俺は思っているんだ」
「そのサンジョウ……って人が、シャロン=マスカレードなんですよね」
「そう。まあ正直なところその将来を突き止めて証拠を本人に叩きつけることができたのが2年前、そして俺は返り討ちに遭って今に至るけれど」
「……そういうことがありつつも、サンジョウって人は自分がシャロン=マスカレードであることは隠している」
「知られたいことではないからね、彼女にとっては」

 シャロン=マスカレードという人物が何者なのか、律には全く分からない。リノに教える気がないのなら尚更何も分からない。名前を変えて、琴葉の親友として傍にいて、なおかつ恭と友人関係を築いている。
 リノの『寂しがり屋』と『孤独』という言葉を真に受けるのであれば、彼女は今の環境を失いたくないのだろう。友人を得ている今の環境で過ごし続けたいはずだ。自分を受け入れてくれる人がいるということは幸せなことだと、知っている。

「悩むかい?」
「もし恭くんからその話を通したところで、リノさんの翼は返ってこないかもしれない。それどころか恭くんが危険に晒される可能性がないわけでもなさそうですよね」
「まあ、それはそうだね」
「そうなると、俺は簡単に頷くわけにはいきません」
「だろうね」

 また、リノは笑う。まるで律の返答を予想していたかのように。

「俺はまず恭くんにそのサンジョウという人物の話を聞きたいし、出来れば彼女自身にも会ってみたいですね。話が出来るのかどうかはともかくとして」
「それは彼女がキョウの友人だから?」
「そうですね」

 誰の知り合いでもないのであれば、そこまで気にする必要のないことだ。しかし、如何せん恭の友人だと言われてしまうと二の足を踏む。
 恭は善悪の区別はきちんとついている。『彼方』の友人が所謂『悪いこと』をしていれば、それをきちんと怒ったり止めたりということができる人間だ。だから『彼方』の人間にいいように使われるようなことはない。律としてはその点は恭のことを信頼している。
 ――そう、だから。間違いなくサンジョウ サヨノは恭の『友人』なのだろう。それだけは分かる。

「まあ何にせよ、俺は今の状況ではもう一度取り返しに行くわけにもね。サヨノに正体を知っていることを開示してしまっている手前、恐らく今戻ればすぐに同じことの繰り返しだ」
「そりゃそうでしょうね。……リノさんとシャロン=マスカレードの間に何があったのか、詳しく教えてもらえませんか」
「うーん……コトハを巡って恋敵。コトハは僕と過ごした日の一部の記憶をシャロン=マスカレードに封じられていてね」
「は?」
「翼を取り戻すことでその記憶も取り戻させたい」
「……ちょっと待ってもうちょっと話整理してもらえません? 情報混乱してるんですけど。あなた鹿屋先生の何なんですか」
「ふふ。まあ昔ちょっと色々あった仲さ。男の意地として、最悪俺の翼を諦めることはできてもコトハの記憶は諦めないよ」

 混乱する律を見て、リノの口端が吊り上がる。愉快犯のようなそれに嫌な予感がした次の瞬間、リノの口から放たれた言葉は。

「――愛した女の為に命懸けで仇討ちした君なら、分かるんじゃないかい?」


 隣の部屋の扉を開ける際にうまく力加減が出来ずに、盛大な音を立てて扉が開く。中で資料を読んでいたアレクがぱちぱちと目を瞬かせて、首をかしげながら律を見る。その姿に少しだけささくれた気持ちが落ち着いていくのを感じる。

「つかれた」
「お、お疲れ……。随分と長い話だったね」
「続けてリノさんが現れてちょっと」
「えっリノ」
「もう帰ったよ」

 怯えるかのような表情になったアレクがきょろきょろと辺りを見回すのを見て苦笑する。どうにも苦手な相手なのだろう。分からなくもない、と思う。律にもしっかりと苦手意識が植え付けられてしまった。
 律はリノのことを何も知らない。しかし、相手はこちらのことを知り尽くしているかのような雰囲気がどうにも気持ちが悪い。不思議なことではない、かつての事件で陰ながら律のことを助けてくれている。そして雪乃の知り合いでもあり祖父のことも知っていた。そうなれば律のことは凡そ把握されていてもおかしくはない。
 それでも、律にとっては昨日初めて会った相手であることに代わりはない。何もかも知られているのはどうしても気持ちが悪いし、律にはリノのことを知る方法が現状のところはない。恐らく彼の言う通り必要最低限の情報の開示はされているのだろうが、そこからリノがどういう人間であるのかを判断するのは難しい。
 律に分かったのは、リノが確かに琴葉を愛しているのだろうということだけだ。
 片付けなければならないことは山のようにある。倒れた恭のこと。渚のこと。リノのこと。シャロン=マスカレード。一気に情報が詰め込まれすぎて、頭が痛い。

「……アレク、今回仕事どれくらいあったっけ」
「リツが調査だけしてくれたのが2つ、あとモニカから届いてて手つかずなのは3つかな。それが終わり次第次の仕事の指示が来る予定だったような」
「5つか……、……3日で終わらせて俺一回日本に帰るね」
「は!?」
「いやもうちょっと気がかりがありすぎて」
「いや別に帰るのは構わないけれど、その前に3日で終わらせるって何!? 死ぬ気!?」
「同時進行すれば何とかなるでしょ」
「……いや目が死んでるけど大丈夫?」
「多分……?」

 とにかく一度日本に戻らなければ。恭とも直接会って話さないことには、何も分からない。本当は今すぐ帰ってしまいたいところだが、今の律は茅嶋家当主代行の立場で動いている。一度受けた仕事を勝手に投げ出すわけにはいかない。アレクがいてくれるのだ、詰めれば最短で3日、多めに見積もっても5日でどうにかすることは可能だろう。
 日本のことを気にするのは、その後だ。

「ま……まあユキノみたいに1日で片付けるって言われないだけマシかな……?」
「うわあ言いそう」
「全くこの親子は本当に……。分かった、ちょっとついでに人手増やせないか当たってみるよ」
「うん、お願い。俺は今から残りの調査行ってくるから資料もらっていい?」
「オッケー」

 頷いたアレクがテーブルの上に資料を広げてくれる。それを眺めながら説明を聞きつつ、律はゆっくりと息を吐いた。
 考え過ぎてはいけない。大丈夫――恭なら大丈夫だ、と信じるしかない。それに日本には今、モニカもいる。知り合いも多い。律がいなくとも何とかなるだろう。気にかかることはあるが、今はとにかく目の前の仕事に集中しなければならない。
 それが今、やるべきことだ。


 翌日、一件仕事を始める前に恭から電話があった。恭にしては珍しくタイミングがいい。時差の計算というものが頭から抜けている恭は、いつも真夜中や早朝、そうでなくても仕事中等、とにかくとんでもないタイミングで電話をしてくることが多いのだ。
 その電話に無事に目が覚めたのだと安堵しつつ、律は電話に出た。

『もしもしー、律さん? 今大丈夫すか?』
「大丈夫だよ。色々あったって?」
『そうっすー。すんません、心配掛けちゃって……』
「いやまあ恭くんに心配掛けられるのなんて今に始まったことじゃないから気にしなくていいけど、大丈夫? ぶんちゃんから大体話は聞いたと思うけど」
『体の方はもう全然大丈夫っすよ! 大丈夫……、なんすけど』

 不安そうに。そして困惑気味に、恭は言い淀む。どうしたの、と思わず尋ねる前にその答えは返ってきた。

『あのー……俺、何も覚えてなくて……』
「覚えてない?」
『よく分かんないんす……ええと、松崎先輩に会ったことは覚えてるんすけど、その先がもう全然』
「全然? 渚くんと何か話したことは覚えてる?」
『やー……何か話したってことは覚えてるんすけど、気付いたらベッドの上いて……本当に何も覚えてなくて』

 その辺りの記憶はすっぽりと抜けてしまっているということだろう。『分体』の記録も一部綻んでいた。つまりそこに何の話をしていたかを知られると困ることがあるということなのだろう。しかしそれは誰に都合が悪いのかが分からない。渚なのか、そうではない誰かなのか。
 順当に考えれば渚の可能性が一番高くも思えるが、律には渚がそんなことをするようには思えない。何らかの力を借りているとしても、どうにもそういった行動は渚の人物像と結びつかない。恭が何度も頭が痛いと言っていたということは、渚に会うより前からすでに恭は何かを忘れさせられていた可能性が高い。渚に会うことで恭がそれを思い出しそうになった結果倒れてしまい、そしてまとめて全て忘れてしまったと考える方がまだ理解ができる。
 しかし、それはいつからなのだろうか。律が知る限り分かる範囲では、恭の記憶が見るからにおかしくなっていることなどなかったように思う。

「……ねえ恭くん、最近変なことあった?」
『変なことも何もー……最近の俺のことなんて大体律さん知ってると思うっすよ? 大体ここんとこ学校行ってバイトしてーの生活しかしてないっすもん。変わったことと言えばおばあちゃんのお葬式くらいじゃないすか』
「何か事件に首突っ込んだりは?」
『してないっす。今回久々に首突っ込んでみた』
「そっか……」

 恭が嘘をついているとは思えない。そもそも律が恭に対して仕事の話をするようになってから、恭も事件に首を突っ込んだときは律に話してくれている。この間こんなことがあった、という会話は既によくある会話だ。
 その時点から何の記憶がないのだろうか。どうしてその記憶が失われているのか。――そこに渚が関わりがあるのなら、考えられるのは。

「……憂凛ちゃんかなあ……」
『律さん?』
「……何でもない」

 思い出したのは橘 憂凛という『半人』の女の子のこと。数年前、恭と仲の良かったその子と恭の間に何が起きたのか、律は詳しく聞いてはいない。何らかの事件が起きた結果恭と疎遠になった、渚の幼馴染。
 律は基本的に恭の前で憂凛の名前を出さないようにしているし、憂凛とも機会がないので全く会っていない。渚にはたまに会うこともあるが、渚に事件の概要を教えてもらったこともない。それでも、恭が憂凛に二度と会わないと言われたと、そう言って泣き崩れた姿を見ているから。どうしてもそれ以上聞くべきではないと口を噤んで、そのままだ。
 あのときどうして二度と会わないと言われたのか、二人の間に何があってそんなことになってしまったのか。聞けるような状況ではなかったということもあるが、言いたくなれば恭が自分で言うだろうと思ったのもある。そのままずるずる聞かずにいたが故に、憂凛のことを恭が忘れてしまっていると仮定したところで、それがどのタイミングかはもう分からない。しかし誰が一体、何のために。
 そこまで考えて、頭をかすめたのは昨日のリノの話だ。恭の友人だというサンジョウ サヨノ。本当にその友人がリノの翼を奪い琴葉の記憶を封じているらしいシャロン=マスカレードなる人物であるとしたら、律が気付くことのないまま恭の記憶を弄ることは可能かもしれない。明らかに術をかけていることが分かるようなものであればまだしも、律が知っているよりもはるかに高度な術で、普段はしない話題である憂凛の記憶を恭が失っていて、それをうまく隠されてしまったら。それならば気付く方法など、簡単には思い浮かばない。

『律さん? 律さーん』
「え? ……あ、ごめんごめん、電話中なんだった」
『何すかそれー? えっと、まあとりあえず俺元気なんで、大丈夫っす。松崎先輩のことも気になるんで、琴葉先生とかに何か知らないか聞いてみようと思ってて』
「それは構わないけど、あまり一人で行動しないようにね。何かあった時に対応出来るようにしておいて」
『あ、ハイ』
「俺もなるべく早く日本に帰るつもりでいるから。……ちょっと恭くんに聞きたいこともあるしね」
『俺に? ……あっれ、何か俺律さんに怒られるようなことしたっけ……』
「え、何、何かしたの」
『いいえしてませんしてませんしてません!』

 電話の向こうでぶんぶんと首を横に振っているであろう恭がすぐに想像できてしまう。思わず笑いながらも少し安心したのは、ひとまず恭はいつも通りだということが分かったからだ。『分体』にも報告は頼んでいるし、この分であれば過剰な心配は不要だろう。他愛のない話を挟むこともなく、じゃあ、とそこで律は電話を切った。
 話したいことはあるが、今でなくてもいい。直接顔を見ながら話した方が、感情の機微も電話より分かりやすい。だから今の律がやるべきことは。

「あ、リツ電話終わった?」
「うん、ちょうど今終わった。ごめんね、中どうだった?」
「まあうっじゃうじゃしてたねえ、死体が」
「一言で分かるめんどくさい案件」

 眼前にあった洋館の玄関からひょっこりと顔を出したアレクのげんなりとした表情に、溜め息をひとつ。今回の仕事は入った人が出てこなくなる廃墟とやらだ。アレクが普通に出たり入ったりして遊んでいる時点で、ただ入るだけなら問題ないことはよく分かる。
 死体があるということは、殺されているから出てこないということだろう。悲しいかなよくある、ありがちな話だ。職業柄死体というものもどんどん見慣れてきてはいるが、何回見ても気持ちのよいものではない。できれば見たくはないが、これも仕事なのでそんな我儘は言っていられない。

「……はー。行きますか」

 気になることは多い、それでも頭を切り替えて。気合を入れるべくぱん、と自分の両頬を挟むように叩くと、律は洋館の中に足を向けたのだった。