One Last P"l/r"aying

27

 自分の置かれている状況をきちんと把握したのは、更に翌日のこと。
 世間一般的に、律は通り魔に襲われて大怪我を負い病院に入院している、ということになっていた。通り魔として逮捕されたのは奈南美の配下として動いていた『ネクロマンサー』だ。元々彼は本当に通り魔をしていたようで、そこから被害者の一人に加えておこうという話になったのだと聞いた。細かいことは『茅嶋』の家として対応しているので問題ないとのことで、ひとまず口裏を合わせるということで話は落ち着いた。
 面会許可が出てから、様々な人が病室を訪れてくれた。悠時と芹の2人は一番に来てくれて、バイト先に連絡を入れた結果同僚たちも見舞いに訪れ、仕事仲間も代わる代わる様子を見に来てくれた。毎日なんだかんだと病室は賑わっていて、様子を見に来る琴葉は「よかったですねえ」と笑っていた。
 ――怪我の状況を考えれば、バーでバーテンダー兼ピアニストとしてバイトを続けるのは難しい。どちらにしろ家を継ぐつもりであればバイトは辞めなければいけないこともあり、勝手ながら辞めさせてほしい、と律は店長に頭を下げた。店長は残念がってもしまた働けそうならいつでも戻っておいで、と言ってくれたのは、とても有難い話だった。
 良い職場に恵まれていた、と思う。本当ならこんな形で辞めるようなことはしたくなかったし、いつかもっとちゃんとした形で、と思っていたけれど、こうなってしまったものはもうどうすることもできない。怪我が落ちついたら今度は客として行くことを約束して、そして律は正式にバーを辞めることになった。
 バーで働く中、様々な人に出会い、色んな縁を繋いだ。それはこの先ずっと、律にとっての財産となるのだろう。

「そっかー。とうとう辞めたかー」

 たまたまその日見舞いに来てくれた悠時にその話をすると、溜め息混じりにポツリとした呟きが返ってきた。残念そうな、寂しそうな。仕事終わりにバーに来ることが多かった悠時としても、律が居なければそう頻繁に行く理由がなくなるからだろう。

「何かもっと、いつか辞める時は、ちゃんと辞める1、2ヶ月前に辞めさせてくださいーって言って、もっと諸々ちゃんとして辞める予定だったんだけどなあ。予定狂っちゃった」
「まあその手じゃなあ……。ちょっと動くようにはなってんのか?」
「ん-、傷痕生々しいまま治りそうになくて……。毎日リハビリしないといけないし、とりあえず支障なく使える程度に回復するまでには2、3ヶ月我慢してって言われた」

 包帯を変えて貰う際に、律は自分の右手を見て確認している。生々しくナイフの突き刺さった痕の残る、右手の甲。『呪い』の影響なのか、琴葉の『ヒーラー』としての能力でも完全に傷口を塞ぐことが出来ずに、右手の甲だけは酷い傷痕が残ってしまっている。他の傷は徐々に治して貰っている最中で、そちらに支障はない。
 恭の右腕の傷はすっかり塞がっていた。痕も残っていなくて本当に怪我をしていたのだろうかというレベルだったので、琴葉の腕は確かなのだなと感心した。そして彼は今日も元気に学校に行っている。病院から学校に通うのは止めろと再三言ったのもあって、恭はあれから一旦実家に戻っている。学校が遠いとだいぶ文句を言っているが、律が面倒を見ることできない今の状態では両親を心配させてしまうので、そこは我慢してもらうしかない。

「……クロイツェル、弾き損ねたまんまピアノ弾けなくなるとは思わなかったな」
「あー。柳川先輩の楽譜か」
「うん。……ま、一人で弾いてもね」
「さすがに俺あの曲のヴァイオリン弾くのは無理だわ……」
「それはそう。てかサックスも卒業してから触ってないんじゃないの?」
「まあ学生時代に比べりゃあなあ……」

 暗譜できるほど読み込んだ楽譜の内容。曲の長さを考えても、幾らこの右手が動くようになったとしても、たどたどしくでも一曲弾き切るほどの力は戻らないだろう。途中で鍵盤を押す力がなくなってしまうことは目に見えている。ある程度までは回復しても、それ以上は戻らない。まだほかにどんな後遺症が生じるかも分からない。
 弾きたかったな、と思ってしまうのは、もう弾くことができないからなのかもしれなかった。

「これからどうすんだ?」
「まあ、リハビリもしばらくは続くし、左手で魔術使う訓練もしないとだし、しばらくはそれに時間費やすかなあ。この手の状態でほっとけないから、退院したら1回実家に帰ってこいとは言われてる」

 それは見舞いに来た椿と桜からの要望でもあった。「食事どうするんですか?絶対料理出来ないですよ」「洗濯とか掃除とか左手だけでするつもりなんですか?」「理由は色々ありますが何でもいいので家に居て下さい、一人にするのは心配です」と矢継ぎ早に言われては拒否権もない。2人には散々心配をかけたことも承知はしているので、おとなしく従うつもりでいる。

「……りっちゃんが家継いだら、なかなか会えなくなるな」
「あはは、そだね。……でも、今まで通り構ってくれると嬉しいな」
「こっちのセリフだ、ばーか」


 退院は、律の意識が戻ってから1ヶ月程経った頃のことだった。
 右手の感覚は少しずつ戻ってきているものの、感覚が戻ってくると今度は酷い痛みに悩まされるようになった。魔術を使って軽減し続けるのは体力も喰う上、疲労が蓄積していずれ倒れることになる可能性が高いから勧められない、という琴葉の判断で、『仙人』が作ったという痛み止めの薬が出されている。今後多少はマシになることはあるだろうが、『呪い』が解けない限りは完全に痛みが消えることはない、と断言された。こればかりは恐らく一生付き合っていくものだと諦めるしかない。

「本当に色々お世話になってしまって、申し訳ありませんでした」
「気にしない気にしない。ギブアンドテイクです。……是非今度お仕事手伝って下さいね?」
「……鹿屋先生本当にあくどい商売してますよね」
「人聞きの悪い。体で返して貰ってるだけです」

 奈南美の調査の件や、前回や今回の治療に関して、琴葉は金銭的な報酬は一切要求しなかった。病院としてもそれでよいとのことで――入院にかかった費用一式は流石に支払いは生じているが――そういう手段で人脈を増やしているということなのだろう。
 確認した話によると、恭は時々そうして琴葉の仕事の手伝いをしているとのことだった。「だって治療費払えないっすー」とぼやく恭に悪びれる様子はなく、そうやって『此方』の世界に首を突っ込む機会が増えたのだなということがよく分かる。
 しかし今回の件については、恭が琴葉と知り合っていなければ、律は今この場で無事に話していない。命の恩人に文句を言うほど馬鹿ではないつもりだ。
 実家での療養生活は、本当に椿と桜があれやこれやと世話を焼いてくれた。申し訳ないと言えばこちらはこちらで口を揃えて「命の恩人なんだからこれくらい当たり前です!」と言われる始末。お陰でそれほど不自由のない生活が出来ているので、ありがたいことではあるのだが。一方の恭は時々茅嶋家を訪れるようになり、すっかり双子と仲良くなっていた。

 そうして迎えた12月20日。
 月命日ではなかったが、律はその日、隣県の柳川家の墓へと向かっていた。一人で出掛けたいというと椿にも桜にも渋られてしまい家から出してもらえそうになかったので、2人が学校で居ない隙にということで千里には出掛けることを告げて、2か月ぶりになってしまった墓参りに出掛けた。
 いつもと変わらず、スーツを着て。花と、ビールの缶と、玲が吸っていた煙草と。いつもと違うのは、律が手袋をしていることくらいだろうか。右手の傷は相変わらず生々しい傷痕が全く消えずに残っていて、包帯が欠かせない。あまり人に見せたいものでもないので、手袋で誤魔化しているという形だ。
 通い慣れた道。いつものように墓の前へと足を向ければ、そこに『彼女』は居た。

『よ、茅嶋』
「……そこに座っちゃ駄目だと思いますよ、玲先輩」
『堅いことを言うなよ』

 そう言って。己の家の先祖代々の墓石の上に座るなどというとんでもない状況で、彼女は――玲先笑う。4年振りに見る、玲の笑顔。当然のことながら彼女は既に死者であり、もう生きてはいないのだから変わる筈もないのだが、そのことに安心した。
 恐らくここに居るのではないか、とずっと考えていた。律が『赤い部屋』を倒したことで、取り込まれる形になっていた玲は解放された筈で、居るべき場所に戻ることが出来る。本来であればそのまま逝ってしまうことが圧倒的多数だろうが、玲は待っているだろうな、と本当に何となく感じていた。何の確証もなかったが、確信はあったのだ。
 いつも通りに花と煙草を備えて、ビールは開けることなくそのまま置いて。しゃがみこんだ状態の律は、自然と玲を見上げる形になる。

「今日、玲先輩誕生日ですね」
『もう歳は取らないけどな。……まあでも、私の誕生日だから、お前わざわざ此処まで来たんだろ』
「そうですよ。良く分かりましたね」
『お前の性格は知ってる。大体毎月月命日に墓参りとか、馬鹿じゃないのか? よく飽きないな』
「来年からはもうしませんよ。……でも、時々来ます」
『私はもう逝くぞ?めんどくさい。馬鹿な後輩が来るのを待ってただけだしな』

 緩く笑って、玲は言う。律は小さく頷きを返しただけで、口は開かない。
 亡くなった人間が現世に残る必要はない。現世に残ればいつ何時また何かに巻き込まれてしまうかも分からない。悪霊や怨霊になってしまう可能性だってある。逝った先のことは現世に生きる律には分からないので勝手なことは言えないが、どうか安らかであってほしいと願わずにはいられない。

『茅嶋』
「はい?」
『私が死んだのはお前のせいじゃないよ。だからもう気にするな』
「……玲先輩」
『ドジ踏んだ私の責任だし、……茅嶋は本当によく頑張ってくれたと思ってる。本当に、ありがとう』

 そう言いながら墓石から降りた玲は、しゃがんだままの律の頭を撫でる。何も言い返せずに、律は黙ることしか出来ない。
 こんな日が来ることを、考えたことはなかった。玲に、律が許される日なそ来ないと思っていた。いや、恭も律に言ってくれた。玲が死んだのは律のせいではないのだと。

『恭のこと、よろしく頼むな。私が生きている間に恭を茅嶋に紹介出来なかったのが残念だ』
「……ほんと、ちゃんと紹介していって下さいよ。大変なんですから」
『アイツ馬鹿だからな』
「……でも、いい子です」
『私の弟だからな』

 照れくさそうに。それでいて自分のことのように誇らしそうに、玲は言う。良い姉弟だったんだろうということが透けて見えて、律は笑う。

『さて、じゃあ私はそろそろ逝くか』
「もう?」
『あまり茅嶋と話し込むと未練が残る。ああそうだ、茅嶋』
「何でしょう」
『私もお前のことが好きだった。……大好きだったよ。私と一緒に居てくれて、有難う』
「……玲先輩」

 ぎゅう、と思い切り心臓を鷲掴みにされた気分に陥る。思わぬ言葉に呆然としてしまった律を見て、玲は笑った。嬉しそうに、楽しそうに。それはとても優しい表情で。

 それが、最期の表情に塗り替わった。


 その帰り道。
 最寄り駅までは電車で帰ってきたものの、入院生活と療養生活が長かったこともあり疲労が強い。ここからはタクシーに乗って帰ろうと決めてタクシー乗り場へと足を向け。

「お久しぶりです、茅嶋さん」
「……渚くん!?」

 どうも、と頭を下げる青年は間違いなく松崎 渚。入院中、彼は律の病室に顔を出すことはなかった。琴葉に渚のことを聞きはしたのだが、大学のことでばたばたしているので会いに来ないのではないか、という返答をもらっただけで、終ぞ渚に直接会って礼を言うことが出来なかったのは気がかりで――こんな形で再開するとは思っていなかったので、面食らってしまう。

「すいません、押しかけるみたいな形で。ここにいれば会えそうだったので」
「ずっと待ってたの!? 寒かったでしょ、ごめんね大丈夫!?」
「大丈夫ですよ、そんな待ってません。ちゃんと調べて動きましたし」
「ならいいんだけど……、あ、立ち話もあれだし」
「いや、今日は立ち話で。俺、あなたに謝らないとと思ってて」

 渚から出た思わぬ言葉に、律は目を瞬かせる。こちらが謝ることは山のようにあるが、渚が律に謝ることなど一つもない。

「……あなたの過去に勝手に触れるような真似をしました。申し訳ありません」
「そんなこと……大体今回のことは俺が悪いし、渚くんが謝るようなことなんてひとつもないよ。恭くんのことだってたくさん助けてくれてたし、それに式神貸してくれてたお陰で命拾いした。ありがとう、迷惑掛けて本当にごめん」
「いえ」

 ゆるゆると首を横に振る渚の表情は沈んでいる。元来真面目な性格であることは律とてよく分かっているが、気にしていたから律に会いに来るのを避けていたのだろうか。
 律のことについて、或いは奈南美に関係することについて、渚が何をどこまで調べたかは分からない。だが律としては彼に知られて困るようなことは一つもない、と言えるつもりでいる。人の調査をするということは他人のプライベートに踏み込むということと同義ではあるものの、踏み込んだ先で渚はその情報を悪用するような人間ではない。

「本当に、気にしないで。今回はありがとう、渚くん」
「……すいません」
「そうだ渚くん、聞きたいことが」
「何でしょう」
「――ねえ、恭くんと何があったの?」

 恭からは聞けていないこと。1年ほど前から突然、恭と渚の交流は途絶えているはずだ。渚が高校を卒業したから、ではなく――恐らく明らかに何かは起きている。
 その質問に、少し困ったように渚は眉を寄せた。口を開いて、しかし言い淀んで口を閉ざしてしまう。

「……柳川からは、何も?」
「うーん、何かあったなって日に、聞けるような状態じゃなかったから」

 あの日。明らかに恭の様子がおかしかったその日、聞き出すことができるほど無神経にはなれなかった。だから律は、本当に何も知らないままでいる。
 恭と。渚と。そして、もう一人。彼らの間で、何があったのか。

「……それなら俺から話すようなことでは、ないので。すいません」
「そか、ごめんね」
「いえ……すいません」
「大丈夫だよ。……ね、憂凛ちゃんは元気にしてる?」
「……、はい」

 僅かな空白が、すべての答えのような気がして。律はただ、笑ってその場を誤魔化すことしか出来なかった。