One Last P"l/r"aying

25

 襲い来る異形の番犬を躱したその次の瞬間には大蛇の牙。それらを防御壁を展開してどうにか耐えたところで、今度は奈南美の剣が律に向けて振るわれる。冗談だと言って欲しいくらいだ、この相手に3対1は実力差があまりにも手厳しい。

「ッ……!」
「あら、よく頑張りますわね」
「そりゃ、死にたくないから……ねっ!」

 術式を展開、同時に1人と2体を相手にするのは無理がある、とは言え奈南美だけをピンポイントで攻撃する形になると、従っている2体がどうなるの火が分からない。となればどちらかから倒した方が良いだろうが、呑気にさてどちらにするか、などと悩んでいる時間はなさそうだ。
 口笛と同時に場を切り裂く氷柱。それは大蛇を直撃はしたものの、それ程のダメージは与えられない。しかし、力量を把握するにはこれで充分だ。続けざまに銃の引き金を引いて番犬を狙う。しかしこちらはあっさりと避けられた。犬なだけあってさすがにスピードがあるということだろう。せめて恭がいれば対応しやすいが、ここにいない恭を戦力に勘案するのは無理がある。
 そもそも果たして恭は無事だろうか。一人で苦戦していないかが心配だ。心配してもどうすることも出来ないが、状況が分からないのはやはり心配だ。

「……隙だらけですよ?」
「――ッ!?」

 反応が全く間に合わない。
 あっという間に律の眼前に迫った奈南美の剣先が律を捉える。防御壁はどう考えても展開する時間は足りない、体を逸らしたところで刃は律の首の薄皮を破いていく。やはり余計なことを考える余裕など、全くなさそうだ。何とか放った雷弾は、奈南美を守るようにして大蛇が受け止める。
 攻撃を避けない代わりに、大蛇は恐らくかなり耐久性が高い。だから彼女の盾として機能しているのだろう。対する番犬の方はスピードが早く攻撃を当てにくいが、もしかすればそれ程耐久力はない可能性がある。この場から追い払うなら、どちらだろうか。せめて2対1ならまだ何とかできると思いたいが、選択をミスすればどちらにしろ同じ。
 イチかバチか。考えている間に消耗してしまうのは、避けたい。

「【汝、在るべき場所へと還りしモノ。この世の理に従いて、この場に在ることを禁ず】!」

 無理矢理術式を組み立てて発動する。律が放った術式に呑み込まれて消えたのは、大蛇。相手取るのであれば攻撃が当たらない番犬の方が若干厄介だとは思うが、あの大蛇が居る限り、奈南美にはどんな状況でも一撃も入らない。
 本当なら2体とも追い払ってしまいたいが、この術を使うと一気に身体に疲労が蓄積する。乱用することはできない――現に既に身体が重い。それでも、多少動きが鈍くなってしまうのは承知の上だ。

「……ああもう。これだから『ウィザード』は」
「3対1持ちかけといて文句言わないでくれる」
「これで2対1にはなりましたけど、どうします?柳川先輩の弟が来るのを待つつもりですか?」
「……来なくてもどうにかするよ」

 ふ、と笑った彼女は恐らく、恭の現状を把握している。律と恭を分断しているのは奈南美なのだから、それは当然だろう。どんな状況なのだと問い質せる状況ではない。知りたければ、それこそ無力化するしかないのだ。
 唸った番犬が律の方に走ってくる。剥き出しになった牙、咬みついてこようとするその瞬間に雷弾を放てば、足元を掠めて悲鳴が上がる。それでも、ここまで引きつけても直撃させることが出来ないのは厳しい。薄く笑った奈南美の連続の剣戟は防御壁の展開で受け止めるものの、いつまでも全てを受け止め続けることもできない。その剣先は確実に、着実に、律の身体を傷つけていく。
 このままでは防戦することしか出来ない。どうにか攻勢に転じるには、どうすればいいのか。術式の組み立て方を変えればどうにかなるかもしれないが、しかし慣れないことを今この状況でするべきではない。ならば。

「……無駄なことをしますね、茅嶋先輩」

 刻んだ『リズム』、三方に喚び出した魔法陣に、奈南美は冷静に言い放つ。口笛の『旋律』と同時に奈南美を襲う雷撃――けれどそれは、剣の閃きひとつであしらわれてしまう。

「貴方の戦い方、雪乃さんとよく似てますね。……血筋かしら、本当に腹が立つことこの上ない」
「……そりゃ、母にも色々教えられて生きてるからね」
「ふふ。……雪乃さんの劣化版でしかない『ウィザード』が、私に勝てるとでも?」

 笑った奈南美の剣の一振りを躱した、と思った次の瞬間。

「……え、」

 がくん、と足から力が抜けて、律はその場に膝をついた。その瞬間に襲ってきた番犬が、律の左腕に咬みつく。深々と刺さる牙、酷い激痛に上げそうになる悲鳴を噛み殺して、銃口をガルムの頭に向けた。放った雷弾が直撃して番犬の身体の半分を吹っ飛ばしたものの、ダメージは大きい。痛みを軽減する為の術式を展開する時間さえ与えずに、奈南美の剣先が迫る。防御壁を展開しても、間に合うかどうか。

「おらあああああ!」
「っ!?」

 声が聞こえた瞬間に赤レンジャーの姿が律の視界に入ってきて、そのまま奈南美の体を吹っ飛ばしていく。それが誰なのかなど、考える必要もない。赤レンジャーに『変身』をするのは、律が知っている限りでは一人しかいないのだから。

「りっちゃんさん大丈夫っすか!?」
「……いや、恭くんこそ大丈夫なの」

 飛び込んできた恭は、赤レンジャーのスーツがあちこち破けていて。恐らく怪我をしているのだろう、数か所嫌な染みが見て取れる。

「俺は大丈夫っすよー。ピンチの時に現れるのがヒーロー! なんちゃってー」
「……ああ、元気そうで何よりです……」
「……全く。本当に役に立たないですね、あの『ネクロマンサー』……」
「俺に『ネクロマンサー』と戦わせたのが悪いっすね! りっちゃんさんの方がよっぽど怖かったっすよあれくらいヨユーヨユー。今頃ぐったりノビてるっす」

 恐らく、以前律と芹の仕事に関わってきた例の『ネクロマンサー』のことを指しているのだろう。彼が恭の相手をしていたのか、と納得する。恭に蹴り飛ばされて壁に激突する寸前で何とか踏ん張ったらしい奈南美が、面倒そうな表情で恭を見る。不意をつかれたとはいえ蹴りを喰らってしまったことが、奈南美としては面白くないのだろう。何より、今まで律の攻撃は一度も通っていなかったのだ。
 恭は本当に、何をしでかすか分からない。困った子だな、考えて、しかしお陰で気持ちが落ち着いた。少しでも怪我を楽にする術式と痛みを軽減する術式を連続で展開、流れ出てくる血を完全に止めることは出来ないが、とりあえず動くことはできるだろう。それよりも足に力が入らないことの方が問題だ。
 恐らく奈南美の剣が律に与えた怪我の影響だろう。普通の傷ではないということだ。確実に、律の体力を奪っている。

「……恭くん、なるべく彼女の攻撃は喰らわないように」
「おっけーっす」
「起きなさい」

 奈南美の声に、倒れていた筈の番犬が反応して起き上がる。吹き飛ばした筈のその身体はあっという間に再生されている――さすがに一筋縄ではいかない。『彼岸』、『カミ』。誰に力を貸していようと、強いものは強い。全然立ち上がれそうにはないが、最低限魔術を使うことは出来るし銃も撃てる。現状、戦うだけなら特に支障はない。
 静寂の後、先に動いたのは番犬だった。瞬時に恭が反応、番犬の方へと駆けていく。律は床を叩くことで『リズム』を刻んで術式を展開、恭の援護――はしない。番犬のことは恭に任せておくべきだ。奈南美は剣を床に突き刺して、何かの術式を展開しようとしている。
 狙いは律か、それとも恭か。考えている時間はない。
 深呼吸ひとつ、奏でる『旋律』、呼応するように部屋の床に大きく広がる魔法陣。律の今の力では、本来扱いきれるようなものではない。しかし宗一郎の力を借りている今なら、恐らくどうにかなるだろうという算段だ。同時、ぶわりと肌に感じたのは膨れ上がる殺気。
 ちらりと番犬と戦う恭を見る。互角とは言えない、どう見ても劣勢だ。恭は怪我と連戦のハンデも背負っている状態でここで戦ってくれている。それでも番犬を引きつけてくれているだけで、律は随分と楽になる。奈南美の動きだけに、集中していられる。
 一瞬の間、そして術式が発動。発光した魔法陣は稲光を発して、無数の稲光となって奈南美へと襲い掛かる。いけるとは思っていない、予想に違わず奈南美の口元は余裕の笑みを象ったままだ。律の手の内が彼女に読み切られていることは予想済み。奈南美が突き刺した剣を中心として、真っ黒な煙が立ち上る。視界を遮るそれに舌打ちして、魔法陣に更に力を注ぎ込むように『旋律』を奏でる。

「りっちゃんさん!」

 聞こえたのは恭の悲鳴だった。何だ、と思った瞬間に目の前に飛び出してきたのは――番犬。律の足に力は入らないままだ、避ける為に動くことはできない。何より今の術式を発動している状態では、防御壁を展開することも出来ない。避ける方法が思いつかない。
 ――受けるしかない。覚悟したその瞬間、律の視界が一瞬にして赤く染まる。
 しかし、覚悟した痛みは来ない。その代わりに、ぽたり、と何かが滴るような音が響く。床に展開した魔法陣が揺らいだのは、律の動揺を如実に表していた。

「恭くん何して、」
「俺のことはどーでもいいから早く!」

 叫ぶ恭の右腕に、ガルムが咬みついていた。その身体が離れていってしまわないよう、恭はガルムを押さえつけている。そんなことをすれば右腕がこの先使い物にならなくなってしまう。
 深々と恭の右腕に牙を突き立てて、離せと暴れる番犬を見て、言葉は全部飲み込んだ。身を挺して律を庇って、番犬の動きを止めてくれた恭の意思を無駄にすることは出来ない。やることは、ひとつしかない。

「まだ動けるでしょう!」
「邪魔させねえっすよ……!」

 奈南美の声、部屋黒い煙が充満しているせいで彼女の姿は全く見えない。しかしその刃先が閃いたのは分かる。狙われているのは律だ。それははっきり分かったが、律は術式の展開を止めない。動揺を殺して正確に『旋律』を奏でで、番犬を狙う。
 発動の寸前、律の目の前に鈍い銀色。構うことなく、術式は発動する――番犬の身体を、雷が射抜く。そして律の身体を貫こうとする刃を、受け止めるもの。
 それは小さな狐。ここにはいない、渚の『式神』。そしてその一瞬で、充分だった。
 獣の断末魔。そして恭の右腕から、番犬の姿が消え失せる。

「あー……松崎先輩の『式神』、もしもの時の為にと思って借りて正解だったっす……マジあっぶね……りっちゃんさん大丈夫っすか……」
「馬鹿、それは俺の台詞だよ!」
「大丈夫っすよー……っと……ちょっと無理か……」

 番犬が消えて。牙が抜けて傷口が剥き出しになった状態の恭から、ぼたぼたと尋常ではない量の血が溢れている。律が叫ぶと同時、ふらりと恭の身体が揺らいで、そのままぺたんとその場に座り込んでしまった。律が咬まれた傷より遥かに酷い。
 ――『式神』を借りてきていたのなら、自分を守る方に使えばいいものを。この状況で律に使える恭に馬鹿だと思いながらも、彼らしくて困ってしまう。
 真っ黒な煙が晴れていき、現れた奈南美の姿もあちこちに傷を負っていた。魔法陣は上手く発動してくれていたらしい。部屋全体を巻き込んだ大規模な術式で、本当に無理矢理使ったようなもので、律ももう動けそうにはない。
 このままではやはり、奈南美に殺されてしまう。それでももう、戦えるような状態ではない。相変わらず身体に力は入らないし、指先一本動かすのも厳しい。最初に大蛇を追い返していなければもう少し戦えたかもしれが、しかしあの大蛇がまだこの場に残っていれば、きっともっと酷い状況だった。

「……全く。本当に『茅嶋』というのは面倒な家系ですね」

 ゆっくりと息を吐いて、ぽつりと奈南美は呟く。その表情にはもう、笑みはない。憎悪に満ちた視線が、はっきりと律に向けられている。

「一筋縄で殺させてくれないところまで母親に似て――本当に鬱陶しいことこの上ありません」
「……新藤さんが、4年も待ってるから殺しにくくなるんだよ」
「そうですね、それ自体は私の失策だったと思っています。……まあ、数年は雪乃の追跡が厳しかったのもあって貴方には手を出し辛かったんですけど」

 雪乃、と律の前で初めて呼び捨てて、奈南美は舌打ちする。そこに込められたものを理解することは、律にはできない。かつての相棒。かつて一緒に戦った人間に対する人質として、『彼方』に引き摺られた者。その心中を推し量れるような生き方はしてきていない。
 律と恭とは違い、奈南美はまだ戦える。次にあの剣が振るわれたら、律にも恭にも避ける方法はない。そしてそう思っているから、奈南美もこうして口を開いている。
 ――ならば、どうするか。動けないからと言って、負けを認める訳にはいかないのだ。それは即ち死を意味する。何より律は、『茅嶋』としてこの仕事を受けている。仕事として、此処に来た。仇討ちが目的ではない、失敗は許されない。4年前のように一矢報いる為だけに此処に来たのであれば相討ち覚悟で死ぬ、という決意をすることも可能ではあったかもしれないが、今回は絶対にそういう訳にはいかない。帰るという約束をした。だから、恭を連れて2人で生きて帰らなければならない。
 ちらり、と奈南美の視線が恭に向いた。肩で息をしているような状況の恭は左手で傷口を押さえて、真っ青な顔をして、それでも真っ直ぐに奈南美を見返している。臆さない――退かない。

「……あー、りっちゃんさん、殺す為に、俺を、先殺すっつーなら、それは、無理っすよー……」
「……そんな状況でよく大口を叩けますね。殺してあげます」
「恭く、」
「俺はぜってー、死んでなんか、やらねーって、決めてるんす」

 そう言って恭は笑う。弱々しく、けれど力強く。その表情に、奈南美は少しだけ表情を歪ませて。
 右手に握った剣を、握り直したのが見える。――体が動かない。引き金を引く力くらいは残っている筈だ、一発くらいなら撃てる筈だ。まだ戦える。まだいける。戦わなければ死ぬだけだ、恭を死なせるわけにはいかない。

「あー……大丈夫っすから、りっちゃんさん」
「何言って、」
「俺、今日、ガチで土下座して、お願いしてきたんで」

 律が動こうとしているのが恭には分かったのだろう。やけにはっきりとした口調で言い切って、その口元に弱々しく笑みを浮かべる。――誰に何を、いつ。この状況で、なぜ大丈夫と言えるのか。
 そこまで考えて、気づく。恭には言える理由がある。彼には、居るのだから。どんな状況であっても助けを呼ぶことが出来る、『相棒』が。
 奈南美が鬱陶しそうに溜め息を吐いて、そして剣を振るう。その切っ先は、恭に向けられている。このままでは確実に斬られる――律は何も出来ないまま。まだ、動くことはできない。
 しかし。その剣は、恭に届くことはなかった。

「っ……!?」
「……サンキュ、ゆっちゃん」

 奈南美の剣先を、喰らうモノ。その姿は、黒豹。
 恐らく、恭の知り合いではあるのだろうが――人ではない。『化生』や『化物』といった存在でもない。それは『彼岸』、『カミ』だ。
 ばきり、とその牙で新藤 奈南美の剣を折って、黒豹は唸る。

「……っ、これだからこの子を相手にするのは嫌だったのよ……!」

 奈南美の焦った声。確かに、彼女は嫌がっていた。恭を相手にするのは骨が折れるから、と言っていた。その理由が、今目の前にある。恭に手を出すと、何が彼を助けるか分からない。彼はあまりにも、知り合いが多過ぎるのだ。

『カミサマ使い荒くない? 柳川くん』
「えー……俺ちゃんと、お願いしたもん……」
『……まあ、柳川くんが死んだら今度こそあの暴力女に殺されかねないから、守ってくらいはあげるけど』

 黒豹が紡ぐのは、女の子の声。『此方』にも『彼方』にも、それどころか『彼岸』とも仲良くなれる恭の才能は、こんな時にこんな形で発揮されるのか、と舌を巻く。律が知らない間にどれだけの知り合いを作っているのか。誰とでもすぐ仲良くなるというのは、本当に恐ろしい。
 ゆっくりと、深呼吸。今なら話せる。今なら、落ち着いて行動出来る。

「……新藤さん。俺を殺しても、復讐にはならないよ」
「……雪乃に聞いたの?」
「違う……けど、まあ、似たようなものかな。そしてこんなこと言ったところで、今更何十年も『魔女』に身を堕としてる貴女を引き戻すことはもう出来ないことも、分かってる」
「そうね。私か、貴方と雪乃が死なない限りはどうするころも出来ない、今更」
「うん。で、新藤さんは今なら俺を簡単に殺せるでしょう」
「ええ」
「りっちゃんさん!?」
「恭くんは関係ない。……それに恭くんはその『カミ』が守ってくれるみたいだし、とりあえずどっちにしろ新藤さんには手を出せなくなった」
「だから?」
「……だから、俺が戦うんだよ、新藤さんと」

 律は笑う。奈南美が表情を変える。――律は本当に動くことができない。それでもやはり、威力は落ちることも当たらないことも覚悟の上で。
 右腕一本くらいは、意地で動かしてみせる。
 折れた剣を握り締めて、奈南美が律に迫る。その表情には焦燥。油断して呑気に喋ってるからだよ、と心の中で嫌味を言って、無理矢理動かした右手を奈南美へと向ける。
 恭が何かを叫んだのが聞こえる。――大丈夫だ、生きて帰る。恭を連れて帰る、だから何も、心配しなくていい。


 律が引き金を引くのと。
 律の身体に奈南美の折れた剣が突き刺さるのは、同時。

 律の右肩に深々と突き刺さる、折れた剣。そして律が放った雷弾は、奈南美の腹を撃ち抜いていた。不思議と痛みがない――というよりも、すでに痛覚が麻痺してしまったか。番犬に咬まれた時に魔術で軽減した影響もあるのかもしれないが、もう、何がどうなっているのか分からない。
 ふらり、奈南美の身体が揺らぐ。けれど決して、膝をつかない。立ったままで、笑う――呆れたように。

「……私としたことが、とんだ失態。貴方如きに撃たれるだなんて」
「……だから、もっと早く、俺のこと、殺しとけば良かったんだよ……」

 あの時、律を『彼方』に引き摺るようなことをせず、殺していれば。雪乃への復讐にこだわるあまりに、そして最も効果的な復讐をするために、奈南美は選択を誤っている。律は確かに『彼方』に引き摺られはしたものの、それでも戻ってきている。結局、『彼方』に引き摺ったからといって雪乃への復讐にはなっていなかった。それならばやはり殺そう、というにはもう、遅すぎたのだ。
 律にとっては『彼方』に一度引き摺られたことで得たものをもあった。そしてもしあのとき『彼方』に引き摺られていなければ、今回こうして恭を伴って奈南美と戦おうとも思わなかっただろう。恭がいない状況であれば律は奈南美の手にかかり、呆気なく命を落としていただろう。
 奈南美の手の内にいたからこそ、奈南美は見誤っていた。律自身ではなく、律の周囲にいる人間のことを見落としていた。
 雪乃を憎むあまりに。復讐しか見えていなかったが為に。その視野は、狭い。

「……本当に、面白くない」
「……新藤さん」
「雪乃は……、いつまで経っても、幸せな女ね……」

 憎らしい、と吐き捨てた奈南美を救うことは、律にはできない。その感情の起源を、憎悪の深さを理解することが、出来ない。想像さえつかないことに、下手な言葉を紡ぐことも。
 もし彼女を救うことができるとするならば、それは雪乃にしかできないことなのだろう。しかし30年以上もの間、雪乃は彼女を救えなかった。それが、答えだ。

「……私はあの女を、どうしたって、壊せないのね」
「……憎い?」
「ええ。……腹が立つ。だから……茅嶋 律」
「……なに」
「最期に貴方が大切なモノを未来永劫奪ってあげる」

 ぐぐ、と律の右肩に突き立てられた折れた剣に、奈南美の体重が圧しかかる。漏れた呻き声、奈南美の後ろで黒豹が律から奈南美を引き離そうと動いたのが見えた。奈南美は笑う。笑って、律の肩を抉る手から剣を離して。

「やめろっ! ……ッ、ゆっちゃん!」
『分かってる!』

 恭の声は悲鳴だった。律は見ていることしか出来ない。それが何かを理解しているのに、限界を超えて魔術を使い過ぎた律の身体は全く動いてはくれなかった。
 奈南美に飛びかかる黒豹。けれど、それよりも早く。

「――ッ、ぐ、う……っ!?」

 振り下ろされたのは、ナイフだった。奈南美の懐に隠されていたナイフが、律の右手に突き立てられていて。銃を握ったままだった律の右手を――貫く。
 更に押し込もうとする力、律の手から離れていく銃、黒豹が奈南美の右腕へと喰らいつく。律から引き離されていく奈南美の腕、そして彼女は笑う。
 狂気に満ちた、笑みだった。徐々に律の視界が霞んでいく。意識が、揺らぐ。

「さようなら、茅嶋先輩。……万が一生まれ変わっても、貴方たちだけにはもう二度と会いたくないものですね」

 それが律に聞こえた、奈南美の最期の言葉だった。