One Last P"l/r"aying

16

 ほとんど奇跡だったのではないだろうか、という考えがぼんやりと頭に浮かぶ。赤い色が剥がれ落ちていく部屋を眺めながら、律は床に転がったまま何とか『リズム』を刻んでいた。掠れた口笛を吹けば、身体のあちこちについた傷がほんの少しだけ楽になっていく。『ウィザード』に治癒の術はない、痛みを若干和らげることと応急処置程度が限界だ。そしてこの程度の応急処置は、この怪我ではほとんど何の役にも立たない。それでも、何もしなければ動けない。
 立ち上がろうとしたものの、全く身体に力が入りそうになかった。力を入れようとすれば全身に激痛が走る。倒せたといえば倒せたのだろうが、完全に相討ちになったというのが正直なところだ。律からは既に紋様が剥がれ落ちており、銃を撃てるだけの手の力も残ってはいない。

「あー……くっそ……」

 今頃、奈南美は笑っているのだろうか。死にかけている律を見て、満足して笑っているのだろうか。そう考えると無性に腹が立つ。一発殴らせて欲しい、という衝動が湧き上がってくる。そんな力はもう残ってはいないことは分かっているが、その衝動だけで身体は動かせる気がした。
 痛みに耐えて無理矢理身体を起こす。激痛に上げそうになる悲鳴を歯を食いしばって押し殺して、律は次の部屋へと続く扉を見た。この先にもうひとつ何か用意されていたら、もう奈南美のところまで辿り着くのは不可能だ。しかし、恐らく奈南美はそこにいる。この先で律のことを待っている。
 這うようにし扉へと向かう。立ち上がることはもう出来ない、当然歩くことも出来ない。何とか這うように動くだけでも、どこかを動かす度に激痛が走る。それでも少しずつ、扉に近づいていく。
 もう律に残っているのは執念だけだ。奈南美だけは。あの『魔女』だけは。絶対にこのままにしておいてはいけない。こんな瀕死の状態では、もう何も出来ないのは分かっている。それでも、どうせ死ぬなら後悔はしたくない。出来る限りのことをやってからだ。そうでなければ、玲に顔向け出来ない。
 どれだけ時間をかけたのだろう。必死の思いで扉に辿り着いて、壁伝いに身体を起こして座るような形で、ドアノブに手を掛けて、体重をかけることで扉を押し開けた。

「……驚いた。流石は雪乃さんのご子息、と言うべきですかね。生きてここまで辿り着くとは思ってませんでした」

 そこに、奈南美は居た。見覚えのある部屋、最初にこの部屋を訪れた時の部屋で、ソファに座って。腕を組んで、立ち上がれない律を見下ろして、笑う――嘲る。

「けれどそんな状態では何も出来ませんね。残念」
「……る、っさいな……」
「ふふ。折角ですから少しお話しましょうか、茅嶋先輩」

 冥土の土産です、とわざとらしい笑みを浮かべて、奈南美が立ち上がる。ゆっくりと律に近づく足取り。彼女が歩くその僅かな振動だけで、ずきずきと身体が痛む。
 スカートが俺の血で汚れることなんて気にもせずに、奈南美は律の目の前に座る。手を伸ばせば届く距離に居るのに、もう本当に身体が動かせない。奈南美もそれを分かっていてこの距離に居るのだろう。――馬鹿にされている。腹が立ったところで何も出来ない自分が歯痒い。

「柳川先輩ったら、随分熱心に私のことを調べて下さって。あっという間に私の『目的』を知ってしまいましたので、ちょっと『お土産』をあげたんです。貴方に話されたら困りますから」
「……おみ、やげ?」
「ええ。貴方が先程倒した彼女。或いは鏡の中のモノ。それを喚ぶ為のモノを柳川先輩にプレゼントして、そして柳川先輩はそれに気がついて応戦、結果として昏睡状態。まあ柳川先輩には相当善戦されてしまったので、『赤』の彼女を喚び出しきれないままになってしまったのはとっても残念でした」

 くすくすと笑う、その笑い声が律の心を逆撫でする。律の顔を覗き込む奈南美の目から逃れるように顔を逸らせば、また、小さく笑い声。

「ねえ茅嶋先輩。いいこと、教えてあげましょうか」
「……なに……」
「あのまま貴方が何もしないままでいれば、柳川先輩の意識は戻ってましたよ」
「……は?」
「貴方が柳川先輩を助ける為に柳川先輩の部屋に立ち入り、そして柳川先輩が必死で押さえた『赤い部屋』の彼女を喚び出してしまったから。だから、柳川先輩は死んでしまったんです」

 言葉の意味を反芻する。今、一体何を言われたのか。理解を拒否する頭で、考える。
 あの天井から怪異を引き摺り出してしまったから、玲は亡くなってしまった。そのことは理解していた。しかし、律が何もしなければ玲の意識は戻っていた、というその意味が分からない。理解したくない。
 迂闊に手を出してしまったから、玲は。

「私は『お土産』を預けただけで、後は本当に何もしていません。それに私はちゃあんと、茅嶋先輩にお伝えしましたよ? 柳川先輩はそのうち目覚めるでしょうし、って」
「……そんな」
「そうですね……、あと3日も我慢していれば、柳川先輩は自然に目が覚めた筈です。まあそれはそれで私としては私の『目的』を柳川先輩から茅嶋先輩に話されてしまって面白くないですし、……貴方の性格を考慮すれば必ず調査にあの部屋に立ち入って、彼女を喚び出してくれると思ってはいましたけどね」
「そん、なの」
「嘘だと思います? ……嘘じゃないですよ? 本当に貴方のせいで柳川先輩は死んだんです、茅嶋先輩」

 あは、と楽しそうに笑って。奈南美の手が無造作に律の顔を掴んで、目を合わせるように無理矢理動かす。全身に走った激痛に悲鳴が上がってしまったのは不可抗力だ。その声に満足そうな表情を浮かべて、律の目をしっかりと覗き込んで、奈南美は口を開く。


「貴方が、柳川先輩を、殺したんです」


 一変して、静かに。その言葉は、律の脳に、心に、刻み込むように。耳に届いた言葉は、ゆっくりと脳に侵食していく。
 ただ、玲を助けたくて、目を覚まして欲しくて。そう思ってやったことが全部裏目に出ていたどころか、3日あれば玲は目覚めたのに、律が手を出してしまったことで玲は。
 ――殺した。

「アハハッ、いい顔ですね、茅嶋先輩。……私ずっと貴方のその顔が見たかったんです。あの雪乃さんのご子息が絶望する顔が見たくて見たくて堪らなかったんですよ」
「……ッ」
「貴方の傍に柳川先輩が居たから、貴方を絶望させる為に今回の手を打たせて貰ったんです。柳川先輩自体には私、全く興味がないですし。たまたま、ついでに死んで頂いたようなものですよ」
「……ついで、って」
「言ったでしょう? 茅嶋先輩。……『死ぬ時は目一杯絶望して頂かないと』」

 満足そうに奈南美が呟いた言葉は、確かに聞いた言葉。
 ――あれは、玲に向けての言葉ではなく、律に向けての言葉だったのだ。律が死ぬ時に底知れぬ程に絶望するように、仕組んでいた。今日こうして、奈南美と相対していることまで。
 真夕と出会ったことも、フルートの死の舞踏を聞いたことも、真っ赤に染まった玲の部屋も。何もかも全部奈南美が、律を絶望させる為だけに周到に仕組んできたこと。それに巻き込まれて、玲は亡くなった。――律の近くに居た人間だというだけで、そのせいで。

「けれどまあ、茅嶋先輩、殺すには勿体無いですね。本当に勿体無い……いっそ私たち側にいらっしゃいませんか?心を喪ってしまえば楽ですよ、柳川先輩を殺した罪悪感から、自分のせいだという自責から、逃れることが出来ますし」

 逃げる。逃げてどうするのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も考えたくないし、何も聞きたくない。これ以上は何も知りたくない。これ以上彼女の言葉を聞いていたら、頭がおかしくなってしまう。
 ――確かに『彼方』に引き摺られてしまえば楽かもしれない。何も考えなくて済むなら、罪を感じずに済むのなら、それが一番。
 しかし――ひとつだけ、奈南美は理解していない。律が今日、何を覚悟して此処に来ているか。覚悟もなく聞いていれば、その甘言にこのまま惑わされていただろう。自分がやってしまったことに耐え切れずに、引き摺られてしまったかもしれない。

「……俺は」
「?」
「玲先輩、泣かせたく、ないから」

 ――殺してしまった自分が何を言っているのだろう、とは思う。それでも、玲は。
 真夕に連れていかれそうになった時、本気で怒ってくれた。引っ叩いて、泣きそうな顔をしながら、怒ってくれた。きっと今この場に玲が居たら、同じように律を引っ叩くのだろうという想像が出来る。引っ叩いて、今度こそ泣きながら律のことを怒るのだろう。
 律が引き摺られてしまうことを、律のせいで死んだ人は望まない。
 手を伸ばす。血まみれの手で、顔を掴んでいる奈南美の手首を掴む。怪訝な表情になった奈南美を見て、律はその表情を笑みへと変える――無理矢理。

「……俺は、死ぬ気で、此処に、来たんだ」
「……そうですか、面白くないことを言いますね。じゃあ死んで下さい」

 す、と奈南美の目が細められる。何かの術が展開しているのが、感覚で分かる――このまま殺されるのか。しかし律には、みすみす殺されるつもりなど元からない。
 喋っている間に、その指はしっかりと『リズム』は刻み終えている。

「……【我を守りし神よ、我を統べし者よ、その力を示す時は来た】」
「……な、」
「【その力の代償に、我が生命を捧げんことを此処に誓う】」

 こんなものではどうにもならない。瀕死の状態の律では、本当に一撃を与えるのが精一杯だ。それでも構わないと決めていた。自分が優位だと思い込んでいるこの『魔女』に、痛い目を見せてやるのだと。
 慌てて律の手を振り解こうとする奈南美の手を、しっかりと握り締める。どこにそんな力が残っていたのかと、自分でも思う程に。逃がしはしない――絶対に。

「馬鹿ですか貴方!? 離しなさい!」
「……馬鹿で、結構。どうせ死ぬなら、自分の命くらい、賭けてやるっつーの……」

 どうせ死ぬのだ、それならばこの生命を捧げることなんて、別に何も惜しくない。惜しむ理由が何もない。
 ぐるぐると走馬灯のように思考が回る。律が死んだら悠時は泣くのだろう。千里はきっと怒らない。律がしたことを受け止めて、そして静かに一人で泣くのかもしれない。両親は――怒るだろう。親不孝者だと怒られる。こんなことで死んでしまうなんてと呆れられるかもしれない。
 奈南美が展開していた何かの術式を強制的に抑え込んで、律の術式が上書きして展開していく感覚がする。身体の力が抜けてしまいそうになるのを、奈南美の手を離してしまいそうになるのを、耐えて。
 発動する、その瞬間。
 ――また違う別の術式が律の術式を塗り替えていく。圧倒的に、暴力的に、蹂躙して、上書きして、消し去っていく。展開していくのは白く発光する魔法陣。それを見た瞬間に、身体の力が抜けた。

「やれやれ。放っといてやろうかと思ったけど、……よく頑張ったね馬鹿息子。仕方ないから助けてやるよ」

 薄れていく意識の中、聞き覚えのある厳しくて優しい声と――烏の鳴き声を、聞いた。



 それから三日三晩、律は生死の境を彷徨うことになった。怪我と、自分の力量を遥かに超えて魔術を使い過ぎたことが原因だ。実家の自室で目を覚ました時には大騒ぎになり、起きたばかりの律には全く意味の分からない状況だった。
 生き延びてしまった――というよりは、生かされた、という感覚が否めない。怒涛の勢いで悠時に怒られ、説明を聞いて、また疲れて眠って。そこでようやく体調も落ち着いて、状況を飲み込めた。
 そうして意識が戻った翌朝。試験前に大学休み過ぎててまずいなあ、などと数日前には全く考えていなかったことを呑気に考えながら、律はとある場所に向かっていた。

「おはよう、ムニン」

 茅嶋家の敷地内にある離れ。その入口で、カァ、と鳴く一羽の漆黒の烏に声を掛けてから、律は中に入った。部屋の中にはもう一羽の烏が居る。

「フギンもおはよう」
「顔色良さそうだね。おはよう、律」
「おはようございます、お母様」

 離れを完全に自室にしてしまっている女性が――母、茅嶋 雪乃が、律を見て笑う。律が母に会うのはおおよそ半年振りだ。ヨーロッパを拠点として世界各地を飛び回って仕事をしている雪乃が、この家に居ることは滅多にない。
 ばさり、と大きく羽ばたいて飛んだ烏は、当然のように雪乃の肩に止まった。フギンとムニン、かの戦神に付き従う烏の名をつけられた2羽の烏は、雪乃が契約している『彼岸』のひとつ。便宜的に『シモベ』と呼ばれている存在だ。
 あの時――律が命を懸けることを決めた時。千里から律のことで連絡を受けていた雪乃が、スケジュールを調整して律を助ける為だけに日本に戻ってきていた。「そのまま死なせてやろうかと思ったけど」とさらっと言われたのは聞かなかったことにした。間違いなく、あの時律が『彼方』に引き摺られていくことを選択していたら、雪乃は迷いなく律のことを殺したのだろう。それを見極めるように、ずっと姿を現すことも、律を助けることもせずに見守っていた。そういうところが、この母は手厳しい。戻ってきているのなら助けてくれれば良かったのに、と思ってしまうのは今だからこそだ。

「まあ座りなさい。って言っても、あんまり時間ないけど」
「え、もう発つんですか?」
「馬鹿息子のせいで仕事結構放置して帰ってきたからねえ。向こうにモニカを待たせたままなんだ」
「……ゴメンナサイ……」
「お義母様から『律が死ぬ気みたいだから助けてやってくれ』って言われちゃ、帰ってくるしかないでしょう。気にしなくていいよ、身体の調子はどう?そこそこ腕のいい『ヒーラー』呼んだから律がピアノ弾けなくなるとかそんな後遺症は残ってないと思うけど。つーか全快じゃなかったらちょっとアイツシメてくるから正直に言え」
「大丈夫です大丈夫ですめっちゃくちゃ元気です寧ろ前より調子が良いですご心配なく!」

 誰が治療してくれたのか知らないが、治療をしてくれた相手が雪乃に怒られるのは申し訳が立たない。実際、身体の調子はすこぶる良い。特に体調を心配する必要もなく今まで通りの生活が出来るだろう。
 勧められるままにソファに腰を下ろして、律は雪乃に視線を向けた。聞きたいことはひとつだけだ。

「……新藤 奈南美とはどういうご関係ですか?お母様」
「んー、腐れ縁の『魔女』としか答えようがないな」
「新藤 奈南美は『雪乃さんには世話になっている』って言ってましたけど」
「はは、そりゃ最大級の嫌味だな。顔を合わせば殺し合いしかしてないよ、私と奈南美は」

 可笑しそうに笑って、けれど何処か悲しげに雪乃は言う。雪乃絡みで奈南美が律のことを知ったのは間違いないだろう。そして後輩となって大学に入学して、今回のことが起きたのだ。会う度に殺し合いをするような関係なら、一矢報いる為に律を狙うのは間違った戦術ではない。律は雪乃よりも遥かに弱いのだから。
 律が彼女の息子だから。理由はただそれだけだったのだろう。

「……奈南美は逃げたよ。人の息子に手を出したんだ、今度こそ仕留めてやろうと思ったんだけどなあ。アイツは逃げ足が早くて困る」
「……そうですか」
「で?そんなことを聞く為だけに此処に来たんじゃないだろ?律」
「……」
「言いたいことはさっさと言え。お義母様には私から話を通してあげるから」
「……はい」

 こういうところは、やはり母親だ。普段傍にいなくても、全て見透かされている。呆れたように笑って、雪乃は荷物を詰めたトランクを閉めた。かちゃりと鍵がかかる音が、室内にやけに大きく響いて聞こえる。

「俺が茅嶋を継ぐ為にお母様の手伝いを始めるの、もう少し待って貰えませんか」

 目が覚めてから、ずっと、考えていた。
 今の律に、大学を卒業する一年半後に、この家を継ぐ為に『仕事』に専念するだけの資格と実力があるだろうか。玲を死なせてしまって、まだ一人では何も出来ない程に弱い。『魔女』一人、倒して捕らえるようなことも出来ないままで。いつだってまだ誰かに助けて貰わないと、生き延びることすら出来ずに居るような状態で。
 ――それに、もう少しピアノを弾いていたいと思う。玲が好きだと言ってくれた、律のピアノを。音楽で生きていくことを選択するつもりはないが、亡くなった玲はもうヴァイオリンを奏でることは出来ない。代わりに自分がピアノを弾き続けたい、そう思うことが自己満足でしかないことは分かっている。

「もう少し、ね。どれくらい?」
「俺が新藤 奈南美を倒せるまで」
「……正気か? 馬鹿息子。あの『魔女』は相当強いよ」
「それでも、それくらいにならなきゃ、俺がこの家を継ぐなんて不可能じゃないですか」
「血筋だけじゃ足りないと」
「血筋でどうこうって話なら極論お父様でもよかったって話でしょ、何も出来ないけど」

 現在『ウィザード』としての『茅嶋』の家を継いだのは、嫁いできた雪乃だ。血筋など関係ない。そこにあるのはれっきとした『実力』だ。雪乃の強さは、律もよく理解している。
 暫しの沈黙。ややあって、雪乃は深々と溜め息を吐いた。

「……どうせ言い出したら梃子でも動きやしないからな、誰に似たのかアンタ意外と強情だしね」
「それはお母様譲りだと思いますよ?」
「ははっ、言ってくれるね。分かったよ、但し大学を卒業したらお前は私の庇護下からは外す、ちゃんと一人の『ウィザード』として『茅嶋』の看板は背負え。そしてアンタひとりの力で生きて、アンタひとりで頑張りなさい。それが出来ないなら好き勝手するのは許さない」
「……分かりました」
「まあ、修行の一環程度にはたまに私の仕事は手伝ってほしいけどね」
「考えときます」

 律の返事に、雪乃は優しく笑う。――最初から律が言い出すことをちゃんと分かっていて、そしてきちんと考えてくれていたことが、本当に有り難かった。

「ちゃんと納得いくまで頑張るんだよ、律。……応援してあげるから」



「試験お疲れっしたー!」
「はーいお疲れー」

 数週間後、律の家にて。気が付けばすっかりと日常に戻っていて、休んでいた時期の講義に泣きながらも無事に試験を終えて。悠時と2人で飲み会を開催していた。
 家のことのあれこれは悠時には何もかも洗いざらい話している。その件については悠時はそっかー、と言っただけで何も言わなかった。律が既に決めたことに口を出す必要はない、ということだろう。ずっと家を継ぐと言っていた律が急にそれを変えたことも、理由が分かっている悠時には問う必要のないことだ。
 いつも通りの日常――けれど、玲の姿だけがない。

「……寂しいもんだなあ、何か」

 悠時も律と同じことを考えていたのだろう、少しずつビールを飲みながら、ぽつりと呟く。律の家で飲み会と言えば当たり前のように玲が居て、やれあれ持ってこいこれ持ってこいとうるさかった。煙草の煙で部屋を真っ白にして、律が怒って、それでも笑っていて。賑やかだったそんな日常が、ぽっかりと欠けている。

「玲先輩うるさかったんだなー……」
「あのひと大学ではクール系のキャラで通ってたとか俺やっぱ嘘だと思うわ」
「ホントだよねえ……」

 当たり前だった日常は、こんなにも簡単に崩れてしまう。そして玲が居ない日常が当たり前になる日が来るのだろう。生きている者は、そうやって生きていくのだ。否が応でも、時間は進んでしまうから。
 玲が自分たちと過ごした時間はどうだったのだろうか、と律はぼんやりと考える。当たり前の日常を、楽しんでいてくれたのだろうか。いつ死ぬか分からないから人生を楽しむのだと、玲は言っていたけれど。
 あ、と不意に思い出したように悠時が声を上げて、がさがさと鞄を漁る。急にどうしたのかと首を傾げれば、鞄から取り出した大きな封筒を律に差し出した。

「……何それ?」
「それな、りっちゃんが実家に引きこもってる間に預かったんだよ」
「誰に?」
「柳川先輩のお母さん。これ多分りっちゃん宛じゃないかって」
「俺宛?」

 玲の母からということは、玲の持ち物だろう。意味が分からないながらも受け取った封筒を開いて中身を取り出すと、そこに入っていたのは楽譜だった。

「……ヴァイオリンソナタの楽譜……」
「ヴァイオリンソナタ?」

 あの時、律はすぐに返事をすることが出来なかった。伴奏が苦手でやりたくないという気持ちが先立っていて、悠時の伴奏を引き受けなければ玲の伴奏も結局断っていたかもしれない。考えてくれ、と言われただけで返事を返すことはできないまま、玲は帰らぬ人になってしまった。
 ――一度も、玲とは演奏をしないままだった。
 ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番、『クロイツェル』。開いたその楽譜には驚く程細かく、びっしりと書き込みがされていた。何度も消した跡も残っているが、奏者自身に委ねているところも多い。

「……悠時」
「ん?」
「どうしよう」
「……どした」
「玲先輩、本当に、俺と、演奏したかったんだ……」

『どうしても嫌だと言い張るなら、弾き方は全部私が指定する。だから、窮屈だろうがその通りに弾いてくれればいい』

 あの時、玲は確かにそう言っていた。これはその為の楽譜で、その為の選曲だ。見ただけで分かってしまう。この曲においてピアノは『伴奏』とは呼べない。ヴァイオリンとピアノが対等であってこそ、成り立つ曲。
 律と演奏する為に、玲が用意していてくれたもの。
 ページを捲る手が震える。玲は本当に、律のピアノを好きで居てくれた。律と演奏がしたいと、心から思っていてくれた。――どうしてそれに、すぐに応えることができなかったのだろうか。もう二度と、玲と演奏することなど出来ない。そんな機会はなくなってしまった。
 どうして。
 ぽたり、と楽譜の上に涙が落ちる。一度溢れた涙はもう全然止まらなかった。ぼろぼろと零れた涙が楽譜を汚してしまうのが嫌で、律は気付けば楽譜を抱き締めていた。
 ごめんなさい。ごめんなさい。――ごめんなさい。溢れ出す感情は、謝罪に塗れて。

 ぼろぼろと泣きじゃくる律に、悠時は何も言わなかった。何も言わずに、ただ傍にいた。
 その日、玲が亡くなって初めて、律は泣いた。