One Last P"l/r"aying

08

「う……?」

 全身がびりびりと痺れて痛い。気持ち悪い、という感覚が拭えないまま目を開く。視界に入ったのは芹の顔。なぜ芹がいるのか――そもそも自分がどこにいるのか分からず、恭は目を瞬かせた。

「……せりちゃん?」
「おはよー恭ちゃん。悠時さーん、恭ちゃん生き返った!」
「縁起でもないこと言うなよ!? 大丈夫か恭、痛いとこねえか?怪我は?」
「……えーっとなんかちょー身体びりびりする……いやえっと?」

 きょろきょろと視線を動かして状況を把握しようとしながら身体を起こそうとすると、途端全身に激痛が走る。思わずイテ、と上がった声に、慌てて芹が恭の背中に手を添えた。視界に入ったのはやたら可愛らしいものが置かれた部屋――ということは、芹の部屋だろう。悠時の部屋であれば、恭も何度か訪れたことがあるので分かる。
 ――何故芹の部屋にいるのかが分からない。
 今日の行動を思い返す。放課後のトレーニングは早々に切り上げた。『分体』に頼んで美味しいと評判のケーキ屋を調べてもらい、少し遠い場所だったもののそちらに足を向け、奮発してホールケーキを買って。そしていつも通り、律の部屋に帰った。そして。

「……? 俺何で2人といるんすか?」
「えっとね、昨日茅嶋くんに恭ちゃんが誕生日ケーキ買ってくるよ、って聞いたからー、じゃあ芹と悠時さんも一日遅れで一緒にお祝いしに行くね、って言ってたんだよ」
「んで仕事終わって芹とりっちゃんち行ったら部屋の前に恭転がってるし、何百回インターホン押してもりっちゃん出てこねえし、何があったか分かんねえけどとりあえずお前担いで芹んちまで来たんだよ。俺んちより近いし」
「ねえ恭ちゃん、何があってあんなところで寝てたの? 茅嶋くんと何かあった?」
「はあ……何かあった、っつーか……」

 ずきずきと頭が痛む。覚えているのは、思い出せるのは。ひどく冷たい、感情の色のない表情をした律と、向けられた銃口。そして。

「……よく分かんないんすけど……でもめっちゃ赤くて」
「赤い?」
「部屋が一面真っ赤っ赤だったんす……ぜってー明らかにおかしいのにりっちゃんさんフツーで……いやりっちゃんさんもいつもと違うし変だしおかしいし……もう何が何だか……」
「……部屋が一面赤い? ていうかりっちゃんがおかしいってどういうことだ」
「いや、あの、えーっと……何て言えばいいのか……」

 何と伝えれば良いのか分からない。あれは本当に律だったのだろうか。そもそも、律が恭を撃つという行為が有り得ない。だから何が起きたのか分からなくて、意味不明なのだ。律はそんなことをする人間ではない、ということを恭はよく知っているつもりでいる。怒らせた時に律に銃を向けられたことはあるのだが、それは律が銃を向ければ大抵人は一旦黙る、ということを知っているからだ。そしてそれは『此方』の知り合い用の対処法で、恭が知る限り本当に撃ったことは一度もない。

「……あのー、俺、りっちゃんさんに撃たれて……」
「え!?」
「はあ!?」
「一瞬で意識吹っ飛んだんだと思うんすよ……多分その後外にぽーいってされて、んで2人に拾われたんじゃないっすかねえ……」
「いやいやちょっと恭ちゃん? 何の冗談? 茅嶋くんが恭ちゃん撃った?ホントに?恭ちゃんが茅嶋くんをマジギレさせたんじゃなくって?有り得なくない?」
「怒らせてないっす何もしてないっすたぶん! ……うえーまだちょっとビリビリする……」

 律の銃が放つ雷弾。それは何度も見てきているものだ。実際に受けてみればよく分かる、この威力のものを生身で何のガードもなく受けてはいけない。今生きているのが不思議だ、と思う。手加減をしてくれたのかどうかは分からない――思い返せば、殺されていてもおかしくはなかった。
 恭の話を聞いて暫く思案していた悠時が、ややあって観念したように溜め息を吐いた。腰を下ろして恭に視線を合わせた悠時の表情は真剣そのものだ。

「……それは多分、『赤い部屋』にりっちゃんが引き摺られてる」
「ひきずる……? 『彼方』になってるってことっすか?」
「最悪はそう。ぎりぎり洗脳されてるくらいだといいんだけど、その辺の詳しいことは俺じゃ分かんねえな」
「茅嶋くんがそんなことなる……? 芹にはちょっと想像つかないんだけど……」

 芹の困惑は、恭にとっても同じだ。律は怪我をすることは多いものの、それは恭や芹を庇った結果であったり、相手がかなり強い――恭では一撃でやられてしまうようなモノを相手にした仕事をしているから、という理由が大きい。
 それでも、追い込まれることはあっても、負けるような人ではない、と恭は思っている。実際律と過ごしているここ2、3年はずっとそうだったのだ。

「……恭ってりっちゃんの実家のこと知ってたっけ」
「実家? いや、聞いたことないっす」
「りっちゃんって代々続く『ウィザード』の家の跡取り息子なんだよ。芹は知ってるだろ」
「知ってる。その道の人には結構有名な家ですねえ」
「ほえー……」
「……ほんっと、マジで、りっちゃん何も恭に何も話してねーんだな」
「え?」
「分かった。俺が話すことじゃねえと思って黙ってたけど、全部話した方が話は早えな」
「何をっすか?」
「柳川先輩が死んだとき、何があったのか」
「!」

 ――ずっと。ずっと知りたいと思っていた。姉はどうして死んでしまったのか。律はどうして毎月欠かすことなく姉の墓参りに行くのか。理由を何度聞いたって、律は絶対に何も教えてはくれなかった。悲しそうに笑って、口を閉ざしてしまうから。お世話になったから、のその一言で全部を隠そうとしてしまうから。どうしても恭はそれ以上を律には聞けずに、いつの頃からか聞くのをやめていた。
 姉の死には絶対に律が関わっている――恭に分かるのはそれだけだ。そして恐らく、律は恭が「玲の弟だから」文句を言いながらも面倒を見てくれている。

「……何があったんすか。姉貴が死んだ時、何があって、それがりっちゃんさんが今変なこととどう関係があるんすか」
「……恭。言っとくけど、俺は全部知ってるけど、聞いただけだからな」
「前に聞いた時は教えてくんなかったっすよね」
「当たり前だろうが。りっちゃんが話してねーことを勝手に俺が話せねーよ。……でももう駄目だな。黙ってる訳にもいかねーな」

 本当は話したくないのだということが良く分かる程、悠時は渋い顔をしていた。けれど諦めきったような溜め息を吐いて、悠時はぼそぼそと言葉を紡ぐ。それはまるで、自分に言い聞かせているようだった。
「……あのな、恭。りっちゃん本当はさ、大学卒業したら家戻って修行して、んで継ぐ予定だったんだ」
「え」
「ガキの頃からそう決まってて、本人もそう決めてた。それが保留になったのは、りっちゃんがずっと追ってるヤツがいるからだ。柳川先輩が死んでからずっとな」
「……それは、誰なんすか?」
「……『魔女』、新藤 奈南美。4年前、りっちゃんを絶望させて殺す為に、りっちゃんに柳川先輩を『殺させた』ヤツだよ」

 ――言われた言葉の意味を、すぐには、理解出来なかった。


 それは、律と悠時が大学3年、そして玲が大学4年の春。1枚の楽譜から始まる話である。

 その頃、練習室には幽霊が出るという噂が立っていた。曰く、ピアノを弾いているとじっとこちらを見てくる女の子がいる。見た人間はいないのにその噂だけが独り歩きしているような状態であることは把握していたものの。

「対応するの演奏会終わってからでもいいと思います?」
「まあ実害出てる訳じゃないからいいんじゃないか」

 玲とそんなやり取りをしたのが、昨日の出来事。学内で開催される演奏会に、律は推薦されていた。仕事より目先の演奏会、出ると言ってしまったものは出なければならない。家にもピアノはあるものの、集中して練習をするなら学内の方がいい。そう判断して、律は練習室を借りた――のだが。
 その練習室に入った途端に、妙な気配を感じた。後で対応するつもりが、噂の練習室を引いてしまったのかもしれない、と思う。目撃者がいないこともありどの練習室なのか、そんなことさえ分からない状態だったのだ。
 気配はするものの、姿は見えない。何かが出てくるのであればそのうち出てくるだろう。一先ず気にしないことに決めて、律はピアノの前に腰掛けた。鍵盤に指を滑らせて、深呼吸をひとつ。
 指慣らし。適当に頭に浮かんだエチュードの楽譜通りに鍵盤を叩く。ピアノの音を聞いていると、自然と気持ちが落ち着く。最初はゆっくり、徐々にテンポを上げて、力強く。一通り弾き終えたら、今度は譜面台に演奏予定の曲の楽譜を広げる。一音一音確かめて、時折楽譜に書き込みながら。弾いたことがない曲ではないが、弾く度にどう解釈して、どういうふうに弾くか――そういうことを毎回考える時間が、律にとっては楽しいものだった。ゆっくりと時間をかけて、一度通しで弾いてみるか、と息を吐いたところで。

「……気になるなら出てきたら?」

 感じた視線。鍵盤から指を下ろして、くるりと後ろを振り返るとすぐに目が合った。びく、と震えたのは相手の方。
 そこにいたのは女の子だった。一見しただけでヒトではない、と分かる。ベージュのワンピースに黒のカーディガン、黒のストレートロングの髪型で、ぱっと見た雰囲気は大人しそうな印象を受ける。律に気付かれていることには気付いていなかったのだろう、おどおどしているのが見て取れた。

「何でこんなところに居るの?」
「あ……の、えっと、お邪魔しちゃってごめんなさい……」
「いや、いいけど」
「ピアノ……ピアノ、弾くんですか」
「うん、俺ピアノ専攻だから」
「…演奏会、です、か?」
「うん。だからここ借りて練習してる」
「何、弾くんですか?」
「ラ・カンパネラ」
「……!」
「で。何で此処に居るの?」

 この大学の練習室で自殺した、という話は聞いたことがない。演奏会の後で調べるつもりでいたので、情報も何も分からない。少しくらい調べておけばよかった、と今更考えてももう遅い。女の子は律から曲名を聞いた瞬間に目を輝かせている。音楽大学の練習室にいるのだから、知っていて当然といったところだろうか。

「あの、えと……私、演奏会、出る予定で」
「うん」
「此処で、練習してて……」
「そっか。それで此処に居るんだ。もしかして演奏会で弾く予定だったりとか?」
「いえ……でも私、リスト好きなんです」
「へえ。俺も好きだよ、リスト。よく弾いてる」

 言いながら、律は楽譜に視線を戻した。少し話した感じからは、悪意も害意も感じられない。迷子の幽霊、といった感じだろうか。縁があったこの練習室にたまたま引き寄せられた、と考えていいかもしれない。自分が死んでいるのは分かっているが、どうして此処に居るのか、は分かっていないのだろう。律自身は『ウィザード』であり、祓ったり成仏をさせる、というのは専門ではないので、倒すか封じる以外のことはすぐにどうこう出来るものではない。
 鍵盤の上に指を戻す。一音。そのまま指を滑らせて、曲を進めていく。女の子が小さくあ、と声を上げて息を呑んだのが分かった。例え幽霊であったとしても観客がいると、やはり気分が違う。改善すべき箇所は幾らでもあるなと考えつつ、一曲弾き終えて後ろを振り返れば、女の子はやはり目を輝かせてうれしそうな表情をしていた。

「すごーい……! 巧いんですね……! この曲すごい難しいのに……!」
「ふふ、ありがと。……君、ずっと此処に居るの?えーと」
「あ、私、夏八木 真夕っていいます。1年、でした」
「真夕ちゃん、ね。俺は茅嶋 律。3年」
「茅嶋先輩……。あの、邪魔しないので、練習見せて貰っててもいいですか?」
「うん、いいよ」

 見ているだけなら特に問題ないだろう、と判断して。成仏させるにしろ、彼女が一体どういう理由で此処に居るのかを知る必要があるだろう。調べるとなるとどうしても時間が掛かる。
 後で玲に相談に行こう、と思いながら、律は再び楽譜へと意識を向けた。


 夏八木 真夕。5年前この大学に入学、その半年後1年生による演奏会のメンバーに抜擢されるも演奏会前日に不慮の事故により死亡。5年前に1年となれば玲も知らない先輩に当たる。
 演奏会で弾く予定だった曲目はフランツ=リストのコンソレーション第3番。律が今回弾くラ・カンパネラもフランツ=リストのものなので、そういった縁もあるのだろうか、とふと思う。そもそも、5年前に死んだという女生徒が今になって練習室に幽霊として出てくる、というのは非常に気に掛かる。前からいたのかもしれないが、つい最近までそんな話を聞いた記憶はない。何か現れてしまうようなきっかけがあったということだろうか。

「……急にヤな予感がしてきた……」
「何してんだりっちゃん」
「練習室に幽霊出てきたから素性調べた帰り」
「ああ、何だ仕事か」

 食堂でぼんやりしていると、ふらりと悠時が現れた。付き合いが長いことも手伝って、悠時はごく普通の一般人だが、律や玲の『ウィザード』としての仕事に対して理解がある。理解、というよりは幾度も巻き込んでしまっているので、だからだと言われれば反論出来ない。とはいえ、悠時は体質的に所謂『零感』と言われるもので、こちらが驚く程に何も感じない上に何も寄ってこない。そういったものも結構特異で、律としては悠時の近くにいるのは安心出来て居心地が良い。

「あ、悠時さあ、玲先輩知らない?」
「柳川先輩? あの人今度のオケでコンマスつってなかった?忙しいだろ」
「あー……そっか。じゃあまあいいや、急いでないし」

 少し相談しておいた方がいいかとは思ったが、忙しい玲を邪魔する程のことではないだろう。練習を見てていい、と伝えたので、恐らくあの練習室を使う時は真夕が現れるだろう。どのタイミングで何をするかは、少し悩むところだ。悪意も害意もないなら、今のところこのままにしておいても問題が発生することはない。

「で? ヤな予感って?」
「……何、聞いてたんだ」
「でっけー独り言言ってんなあ、と思って」
「んー。まあ何となくそんな気がしただけだし、きっと気のせいだよ」
「無茶すんなよ」
「分かってる」

 気にはなるが、偶然だと思いたい。真夕は恐らくどこにでもいる、ピアノが好きなだけの女の子だ。誰かが何らかの意図を持って起こしたところで、何の役にも立たないだろう。

「あ、いけね、授業出なきゃ」
「お。次何」
「臨床音楽」
「……りっちゃんいつの間に何を思ってそんな授業取ってたワケ?」