One Last P"l/r"aying

06

 いつものようにバイトを終えて家に帰った途端、クラッカーに襲われた。

「おたんじょーびおめでとーございまーす!」
「……は?」

 朝から騒がしいな、と律は眉を寄せたものの、クラッカーを鳴らした張本人である恭の言葉に首を傾げる。恭はしてやったりとでも言いたげな満面の笑み。つつ、とカレンダーに視線を移す。
 ――今日は10月4日。確かにその日付は律の25歳の誕生日で間違いない。

「……もしかしなくてもりっちゃんさん今日の日付が分かってない」
「ごめん頭半分寝てた……」
「お誕生日っすよお誕生日!」
「……てか恭くん起きてたの? 朝練?」
「ちーがーいーまーす! 俺元々5時起き!朝のジョギングしてたの!」
「ああそっか……朝から元気で何より。とりあえず家に入れていただけませんかね……」
「あ、どぞ。おかえりなさい」
「うん、ただいま」

 ひとまず玄関より中に入れて欲しい。訴えれば慌てて退いた恭の横を通って、部屋の中へと足を踏み入れる。一瞬だけ変に飾り付けされていないかと危惧したのだがそれは杞憂だったようで、いつも通りの部屋が視界に入る。
 自分の誕生日のことなど、すっかり忘れていた。今年は4月に恭の、8月に悠時の誕生日を祝って、次は律だという話をしたことは覚えていたのだが。とりあえず荷物を置いてキッチンに向かって、冷蔵庫を開けて常備しているミネラルウォーターを一気飲みする。後ろから恭がまるで大きな犬のようについてきていたのが見えて、少し笑ってしまった。

「お誕生日おめでとうございます!」
「うん、ありがとー」
「何でそんな冷たいんすかー。びっくりさせようと思って待ってたのにー。もっと喜んでくださいよう」
「いや……眠くて……」
「あ! 俺今日ケーキ買ってくるっす! だから一緒にケーキ食べましょうよ―。悠時さんと芹ちゃんも呼んで!」
「……とっても残念なお知らせなんだけど、俺今日もシフトはオープンだから家出るの早いよ。カレンダー書いてるでしょ」
「えっ! あ!? 何で今日に限って! 何でせめて21時出勤じゃないんすか……!?」

 見るからにがっくりと肩を落とす恭に、いつも感情表現が素直で面白いな、とぼんやり思う。羨ましいくらいに真っ直ぐで、そして要は単純な性格だということなのだが。玉に瑕ではあるが、恭のよいところだと律は思っている。

「あ、じゃあ明日! 明日ならどうっすか!」
「明日ー…は休みじゃなかったっけ。うん、休み」
「今仕事の予定とかもないっすか?」
「あっても言いませんが」
「もー! でもじゃあ明日! 明日の夜! はい決定! ぜーったい予定入れちゃダメっすからね!」
「はいはい」

 適当な返事を返しながらも、頭の中でスケジュールを思い返す。日中は仕事の関係で色々とすることはあるが、夜は時間もできるだろう。さてどうするか、と思うものの、ふあ、と欠伸が出てしまう。睡魔で思考が回っていないときはシャワーを浴びて一旦寝るに限る。飲み干したミネラルウォーターのペットボトルを捨てて、着替えを取って浴室に向かいつつ。

「お祝いありがとね、恭くん」
「へへん」


 夢を見た。
 その夢を見るのは初めてではない。この4年程、思い出したように夢に出てくる。見続けていれば囚われてしまうような気がして、早く目を覚まさなければならないと思うのに、夢の中の律はそんな意思を無視してどんどん先に進んで行ってしまう。
 歩いていく。どこまでも歩いていく。そして唐突に現れる扉を開く。眼前に広がるのは真っ赤に染まった部屋だ。そして部屋の中には姿見が置かれている。夢の中の律は4年前と同じように、現れた『彼岸』たちと戦っている。必死で戦っているのに全く勝てず、ぼろぼろになって負けて、そして床に倒れ込んでしまう。そうして天井からずるずると這い出てきた女が、笑うのだ。律を見て、嫌な笑みを浮かべて――そして。

「――ッ!」

 金縛りが解けたように、律は跳び起きた。いつもそこで目が覚める。頭がぐらぐらと揺れて、気分が悪い。心臓が締めつけられているかのような胸の痛みに、ひとつ深呼吸。大丈夫だ、と必死で自分にそう言い聞かせて、気持ちを落ち着かせる。
 時計を見れば、時刻は既に昼を回っていた。余程疲れていたのか、いつもと比べると少し寝過ぎてしまったような気がする。のろのろとベッドから出て、洗面所で顔を洗う。
 嫌な悪夢で、嫌な記憶。一度たりとも忘れたことなどない。夢で繰り広げられる光景は、恭の姉である玲が『殺された』時の光景だ。
 あの時のことを、律は未だに恭に話せずにいる。『此方』である限り、恭にも知る権利がある真実。誕生日に見るような内容ではないな、と自嘲気味に笑う表情が鏡に映る。忘れるな、と警告されているかのようだ。忘れられる訳もないのに。
 あの時、もっと強ければ。せめて今くらいの技術と知識があれば。それならばきっと、あんな事態を引き起こさずに済んだのに。そう悔やみ続けながら、あの日から動けないまま、律は今も『ウィザード』という仕事を続けている。
 部屋に戻ったものの落ち着かずに、ピアノを置いてある部屋へと足を向ける。いつもより睡眠時間は長かった筈なのに、少しも眠った気がしないのは夢のせいだろう。あの夢を見てしまう日は、いつもそうだ。いつものことだ。終わったことだ。もう取り返しのつかない、今の律にはどうすることもできない、終わってしまったこと。そしてもし、万が一やり直せたとしてもきっと過ちは繰り返されてしまうのだろう、と思う。
 振り払うように思い切り伸びをして、天井を見上げる。見上げた天井がいつもと何ら変わらない。――何も変わりはしないのだ。25歳になったからといって、今更何かが変わる筈もない。
 蓋を開けて、ピアノの鍵盤に指を滑らせる。本当ならばもうとっくにピアノは辞めているつもりだった。趣味程度に弾き続ける程度のものだろうと思っていたピアノを、未だに弾き続けている。学生時代よりも遥かに弾く曲は増えて、リクエストがあれば何でも弾くようになったお陰で演奏の幅も広がった。それは魔術の術式を組む際にも生かされているし、ピアノを弾くことで誰かが喜んでくれるなら、何でもいいから弾いていたいと思う。
 そうしていれば、玲が笑ってくれる気がして。

『私は結構茅嶋のピアノが好きなんだが』

 それは玲と交わした最後の会話。ピアノの道は進まずに『ウィザード』一本に絞るつもりだと言った律に、心底残念そうに玲がこぼした言葉。
 遺品として律の手元に残っている、玲が残した楽譜。ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番、『クロイツェル』。それは玲から一緒に演奏しないかと誘われて渡されたものだ。びっしりと書き込みがされているその楽譜を、しかし律は一度も弾いていない。何が書いてあるのか一言一句違わずに思い出せる程に読み込んでいるものの、この曲だけは弾かないと決めている。
 玲のその誘いを、律は渋った。返事は後でいいと笑った玲に、すぐに弾くと返事を返すことが出来ていたら。そうすればまた違う結末があったのではないかと、そんなどうしようもないことを考えてしまう。どんな返事を返したところで結末が変わることはなく、そしてもう既に終わってしまったことなのに、それでも。
 ピアノの蓋を開けて、鍵盤へと指を下ろす。そのまま指先に力を込めれば、響き渡ったのは恐ろしく不快な不協和音。適当に指を置いているだけだからと言い訳しつつも、今の自分の心情を表しているようで。
 いつだって、奏でる音は誤魔化せない。


 誕生日とはいえ日常はいつもと変わらない。出勤すればバイト仲間や常連客といったメンバーに次々に誕生日を祝われて、少し擽ったい気分になる。客の入りとしてはそこそこで、それなりに忙しかった。悠時と芹の2人もお祝いに、と顔を出してくれたものの、ゆっくり話せるような余裕はなく。明日恭がケーキを買ってきてくれると言っていた話を伝えると、ならそこで改めてお祝いしようという話になって、2人は早々に帰っていった。
 やっと一息ついた頃には、時計の針は0時近く。もうすぐ日付が変わる。誕生日は終わるな、と思ったその時、入り口が開く音がした。いつもと変わらず反射的に振り返って、いらっしゃいませ、と言いかけて――固まった。

「おう兄ちゃん。二度目ましてだな」
「……何でここに?」
「痛い目遭わされたから?」

 入口に立っていたのは、先日芹の仕事を手伝った時に出会った『ネクロマンサー』だった。先日会ったときには見るからにホームレスのような風体だったが、今日はスーツ姿でびしっとしたサラリーマンのような風体になっている。とはいえ、醸し出している雰囲気は全く同一だ。それが違っていれば、街中で会っても気付かないだろうと思えるほど別人だが。
 中に入ってきた『ネクロマンサー』は当然のようにカウンター席、律の前の席へと腰を下ろす。律を見上げてにたり、と笑うその表情が薄気味悪い。

「今日の俺はただの客だよ、何もしねえ。まあもてなしてくれや」
「……ご注文は?」
「ブランデーが良いな。マーテルはあるか」
「ありますよ」

 正直なところ飲ませる酒などない、と言って追い返したいところではあるのだが、他の客も店員もいるこの状況では下手なことはできない。律自身、この店の中で妙な面倒を起こしたくない気持ちもある。それを見越して、この男はわざわざこの店に足を運んだのだろう。目的が何なのか分からない。偶然この店に来たという雰囲気ではない、ということはわざわざ律を訪ねてきているのだから、何の意図もないということは考えられないだろう。

「警戒しとるのう、兄ちゃん。客商売の店員が殺気立ってるっちゅうのは頂けんな」
「……失礼を。ご用件は?」
「酒を呑みに来ただけ。って言っても兄ちゃんは信用せんか」
「しませんね。俺がここで働いているのを知ってて来ているなら嫌がらせでしょうほとんど」
「はっは。そんなつもりはねえんだけどなあ」

 笑いながら律が差し出したブランデーに口をつけて、男は心底美味そうな顔をする。それだけ見ていれば確かに害意はないように感じるが、相手は『彼方』だ――油断はできない。『彼方』、『彼岸』に引き摺られた者。堕ちた者、心を喪った者、とも称される彼らの価値観は、本能と欲望に忠実であることが圧倒的に多い。他者に害を与えることに何ら躊躇しない。そのことを、律はよく知っている。
 暫しの沈黙。気持ちを落ち着かせようと無心でグラスを拭く律を見ながら、男が口を開く。

「そういや兄ちゃん、『茅嶋』だったんだな」
「……それが何か?」
「いやいや。喧嘩売る相手を間違えたなと思ってな」
「貴方の喧嘩を買ったのは俺の連れでしたし、俺は貴方が何処の誰かも知りませんけどね」
「あの嬢ちゃんはえぐかったな……。俺はまあ、兄ちゃんの家系程有名じゃあねえからな。『ウィザード』で『茅嶋』といやあ、こっちの世界に明るいヤツなら知らねえヤツはいねえだろうし。俺はただのしがない『ウィザード』が堕っこちた成れの果てでしかねえさ」

 その言葉に、律は努めて無表情を装う。あまり『家』の話を外ですることを、律は好んではいない。この4年、律の『ウィザード』としての仕事は『家』とは何ら関係がないことだ。同業者や知っている人間が接触してくるときも、『家』に絡みそうな仕事は大抵断ることにしている。

「そうですか。貴方が堕ちた経緯に特に興味は湧きませんね」
「冷てぇなあ、おい。下々と会話する気はありませんー、ってか」
「貴方たちと会話して、それが俺にとって何になるんです?」

 他者を傷つけるどころか『彼方』に引き摺ることも、殺すことさえ厭うことのない者たちと、どう友好的な会話が出来るというのだろうか。『此方』と『彼方』は相容れない――それが今の律の考え方だ。

「まあ構わんさ。……お」

 男がふと視線を移すと同時に、時計から0時を知らせる時報のメロディが鳴り響く。その音が少しずれている気がして、電池切れが近いのだろうか、と別のことを考える。そんなことが気になってしまうのは恐らく、神経が過敏になっているのだろう、と思いながら。

「こんな時間になっちまったか。いかんいかん。兄ちゃん、仕事は何時に終わるんだ?」
「……俺の仕事が終わる時間が、貴方に何の関係があるって言うんです」
「なあに、俺が兄ちゃんのトコに来た用事を済ませるってだけだよ」
「やっぱり用があって来てるんじゃないですか」
「ああ、ちなみに一戦交えようってワケじゃあねえぞ、勘違いすんな。さすがの俺も『茅嶋』に喧嘩売る程馬鹿じゃあねえつもりさ。兄ちゃんがどうしても戦うっつーなら俺はとっとと逃げるぜ?」

 俺はまだ死にたくねえからな、と。そんなことを言いながら、『ネクロマンサー』はにたにたと笑う。その表情はやはり、薄気味悪さが拭えない。

「……じゃあ俺に何の用なんです」
「招待状を持ってきたんだよ、うちの姉御からのな」
「……?」

 男の懐から取り出されたのは、小さなカードだった。カウンターに伏せるようにそれを置いて、男は立ち上がる。ついでのように置かれた五千円札で、そのカードを隠して。

「仕事が終わったらそこに行け」
「俺に行く理由もなければ義務もないですが?」
「いいや、アンタは絶対に行くさ。ああ、あと釣りはいらん。小銭は嫌いだ」
「意味がわかりませんけど……」
「じゃあ兄ちゃん、達者でな」

 くるり、踵を返して、店の入口へと向かった男は、けれどすぐに足を止めた。反射的に一瞬身構えた律を見据える男の目は、どこか哀れみが混じっているようにも見えて。

「年を取ると忘れっぽくていかんな。忘れてたよ、兄ちゃん」
「……まだ何か」
「姉御からの伝言だ。――『お誕生日おめでとうございます。茅嶋先輩』って言ってたぞ」
「!?」
「じゃあな」