One Last P"l/r"aying

01

 秩序を守れ。この世はヒトの世界である。

 秩序を乱せ。ヒトのことなど知るものか。

 ――嗚呼、嗚呼、なんて忌まわしくいとおしい。


 魑魅魍魎に『時間』など関係ない。ただそれらは、ヒトが『夜』を、暗闇を怯えるからこそ――その時間帯が最も動きやすく力を振るいやすい、というだけで。

「【汝、雷を司りし者、稲妻を従えし者。戦車を駆りて戦いし汝の力、卑小たる我に貸し与え給え】」

 静かな夜に響いた青年の声。ばちりと一瞬稲光が男の右腕を取り巻いて、消え失せる。意に介さず眼窩に闇を湛えた異形が青年に迫る。振り上げられた手から滴り落ちる液体は、青年に届く前に何かに阻まれたように消え失せた。

「……俺今日はまだ仕事前だからさ、服汚されるのは困るんだよね?」

 一言。場に似つかわしくない、少し困ったような声音。振り下ろされた手は、彼の眼前で動きが止まった。明らかに力が籠っているその手は、彼には届かない。見えない壁に阻まれているようなそれに、異形は更にぐぐ、と力を入れて。瞬間、空気を切り裂いたのは口笛の音。どこからともなく放たれた雷撃が、異形の腕を消し飛ばした。奇怪な叫び声が響き渡る中、青年の手の中に現れたのはリボルバータイプの鈍い銀色の銃。
 異形は吠える。大きく開いた口、今度こそ青年を喰らおうとするそれを、青年は冷静に見つめながら銃口を向けた。引き金に掛けられた指が小刻みに素早くリズムを刻む。ばちりと光る銃身、引かれた引き金、銃口から飛び出したのは銃弾ではなく、雷弾。
 至近距離で直撃を受けた異形はその場にずるずると崩れ――黒いもやとなって消えていく。銃を下ろした青年の手から何もなかったかのように銃が消え、青年はその場に腰を下ろした。静かに手を合わせて、目を閉じる。

 青年の名前は、茅嶋 律。24歳、職業――『ウィザード』。
 律は『此方』と呼ばれる存在だ。秩序を守り、正す為の力を持つ者。律は『此方』として動くことを本業としているが、一般人に溶け込んで普通に生活している者も多い。
 『彼岸』――『怪異』や『カミ』、『向こう側』などと呼ばれる存在のうち、ヒトに害為すモノを倒したり鎮めたり、というのが『此方』の存在の仕事だ。悪意を持つ『彼岸』の存在に引き摺られ、その能力を反転させた『彼方』という存在の中で、ヒトに害為す者を取り締まることもある。

 これは世界の裏側、密かな戦いの物語。


 律が普段働いているバーは、繁華街の一角にある。

「あら、今日茅嶋ちゃんいるじゃないの! ピアノ弾いてちょーだいっ」
「いらっしゃいませ、蘭寿さん。後で弾かせていただきますね」
「ありがとう。いつものいただける?」
「かしこまりました」

 バーカウンターで、律はにこやかな笑顔で客を迎え入れた。律は表向きの職業として、このバーでバーテンダー兼ピアニストとしてバイトをしている。大学時代からこのバーで働くようになって4年、常連の顔も好みも覚えている。彼、もとい彼女は近くのスナックのママだ。自分の店を閉めた後、元気があればこのバーに顔を出すのが日常になっているようで、1時間ほど滞在して帰るのがお決まりだ。
 いつも飲んでいるお気に入りの銘柄らしいブランデーを差し出せば、まだ蒸し暑い夜に涼やかな音が鳴る。

「曲のリクエストありますか?」
「この間弾いてくれたやつがいいわねえ。何だったかしら、クラシックの」
「一昨日来られた時はジャズでしたよね……、クラシック……」
「そうよー。先週くらいだったと思うんだけど」
「ああ、じゃあセレナーデだ」

 軽くやり取りを交わして、律はピアノの方へと足を向けた。元々、律がこのバーに採用された経緯は「ピアノが弾けるから」というものである。オープン以降インテリアとなっていたグランドピアノの使い道に悩んでいたオーナーが、面接に来た当時音大在籍だった律の経歴を見てこれ幸いと採用を決めたのだ。律としてもこの職場のお陰で随分と助かっているので、現状不満も文句もない。
 リクエストに関する記憶を辿りながらピアノの前に腰を下ろして、ピアノの蓋を開ける。白鍵に手を滑らせると落ち着くのは、幼少時からずっと好きでピアノを触ってきたからだろうか。記憶を手繰り寄せた曲をワンフレーズ。鳴らした音にそれ!と嬉しそうな声が上がったのを確認して、そのまま指を滑らせた。
 ――律の『表向き』の日常は、こうして成り立っている。


 ピアノのリクエストが続き後片付けに取り掛かるのが遅くなってしまったこともあり、普段の帰宅時間よりは1時間ほど遅い午前6時過ぎに律は自宅へと戻っていた。大通りからは少し離れた場所にあるマンションの7階に、律が暮らす部屋はある。流石に眠いな、と欠伸を噛み殺しつつ、家の鍵を開けて。

「ただいまー……」
「ん。りっちゃんさんおかえりなさーい」
「あれ。恭くんもう出るの?」
「今日は部活の朝練に顔出す予定なんすよ」

 部屋の中から手に食パンを持ったまま玄関を覗き込んでくる、制服を来た男子高校生。柳川 恭18歳、先日陸上部を引退した高校3年生。陸上で全国大会入賞という記録を持っている彼は、律が大学時代世話になった先輩の弟だ。隣県にある実家から毎日通学するのはそれなりに厳しい距離であることもあり、恭が自分で律のところにやってきて一緒に住むと言い出したのが2年半ほど前。彼が抱えている事情を鑑みて律が折れる形で受け入れて、今は下宿という形で同居している。

「そうだったんだ。ごめんね遅くなって……。朝ごはんそれで足りる? 何か作るよ」
「や、大丈夫っす。りっちゃんさん顔がお疲れっすよー、早くシャワー浴びて寝た方が良くないすか?」
「んー、じゃあお言葉に甘えて」

 賄いを朝方に食べた影響もあるのだろう、特に律は空腹ではない。どうしても空腹になるのであれば起きてから何か作れば良いだろうと考えながら着替えを出している最中に、また欠伸がひとつ。思っているより疲れているのかもしれないな、とぼんやり考える。今日は外出する予定があるものの、一日休みにしてある。のんびり羽を伸ばすのも悪くない。

「あ、りっちゃんさん」
「ん?」
「今日姉貴んとこ行く日っすよね?」
「ああ、うん。行くけど、何で?」
「俺も学校帰りに行こっかなあ」
「……恭くんすぐ水ひっくり返すから一緒に行かない、絶対ヤダ」
「何で!今度こそひっくり返さないっす!たぶん!」
「信用ならなさ過ぎる。……ていうか行くならたまにはちゃんと家に帰りなよ」

 下宿という形になっているとはいえ、実家に帰ることが出来ない距離ではない。毎日通学するにはしんどい距離ではあるが、一応は片道2時間程度の距離だ。恭の場合、こうと決めたら梃子でも動かない頑固さで律にも両親にも下宿を認めさせた経緯があり、知らない仲でないとはいえ心配もしているだろうと律は思う。実際、恭の母親からはよく野菜や米が送られてくるし、律も時々恭の両親には連絡を入れている。気を遣わないでくださいと申し出たところで、それは難しい問題だろう。

「えー……明日家から学校行くのちょーめんどくさいじゃないっすか……」
「……怒るよ?」
「うへへ。よしっ、じゃあ行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい」

 大きなスポーツバッグを背中に背負って、恭が家を出ていく。手を振って見送ってから、仕事用にワックスでオールバックに固めた髪に触れて、溜め息ひとつ。

「……とりあえずシャワー浴びるか……」


 シャワーを浴びた後ベッドに潜り込んで数時間睡眠を取ってから、律は外出の用意を始めた。
 真っ白なシャツに漆黒のネクタイを締めて、道中の暑さを考えてジャケットは手持ちに。事前に買っておいたビールのミニ缶と、律自身は吸わないメンソール風味の煙草の箱を持って家を出る。電車に揺られて目的地の最寄りの駅に到着後、今度は花を買って。そのまま乗り込んだバスに揺られ、バスを下りれば今度は十数分歩いて、ようやっと目的地が眼前に現れる。それはもう、4年間欠かしたことのない律の毎月の『用事』だ。

「こんにちは、玲先輩」

 穏やかな声で、いつものように声を掛ける先にあるのは、柳川家の墓。ここには4年前に亡くなった、律の先輩であり恭の姉である柳川 玲が眠っている。台風でもない限り、律は毎月彼女の月命日にこの場所を訪れていた。
 持ってきたものを供え、手を合わせる。顔を上げれば、今度は掃除をしながらとりとめもなく最近の恭の話を報告して。その行為に何の意味もないことを知りながら、律はそうせずにはいられない。
 彼女の死因は『不明』ということになっている。真っ赤に染め上げられた自室の中央で倒れており、数日の昏睡の後、目を覚ますことなく亡くなった。倒れていた玲の第一発見者は律だったこともあり、状況の不可解さから随分と警察の事情聴取を受けた。結局のところ何も分からず、彼女自身が精神的に通常ではない状態になった結果なのだろうということで片付けられている。
 だが実際のところ、律は玲の本当の死因を知っている。彼女は確かに殺されたのだ。――『彼岸』の存在に。

「……俺、玲先輩に助けて貰ってばっかりだったあの頃よりは、強くなれてますかね」

 掃除を終えて。墓の前に腰を下ろして、じっと墓石を眺めながら苦笑交じりに呟いたその言葉に、答える者は誰も居ない。分かっていてそれでも、いつも口にせずにいられない。
 あの時、もっと。その気持ちを4年間、引き摺って生きている。

「玲先輩に、茅嶋の『ウィザード』の癖にって怒られないように。ちゃんと頑張っていかなきゃ、ですね」