Colorless Dream End

10

 はっと目を覚ますと、見慣れた白い天井。病院だ、ということに気付くまでさして時間は掛からなかった。
 今度は何が起きて病院にいるのか――ふわふわしているようにも思える記憶を手繰り寄せる。奈瑞菜に会いに行ったことは覚えているが、そこで何が起きたのかは思い出せない。奈瑞菜と話をしていて、景色が変わって――その後。何かが起きたはずなのに。恭自身、自分の記憶力にそれほど自信はないが、これはもうそんなレベルの話ではない。完全に思い出せなくなっている。
 病室を見回してみるものの、誰もいないようだった。取りあえず起きよう、と体を起こしてベッドから降りようとした――その瞬間に走る、違和感。

(……あれ)

足が動かない。動かないというよりも、あるはずの足の感覚が全くない。思わず布団を捲って足元に視線を向けたものの、特段いつもと変わっているような感覚はなかった。怪我をしている様子もない。しかしそれならなぜ突然、足がなくなったかのようなこんな感覚に陥っているのだろうか。

(何でこんなこと、に……え)

次の違和感は、声が耳に届かなかったこと。今確かに、口を開いた。独り言ではあっても、話そうとした。その筈なのに。

(あー……いや、出てない……な……?)

 今度は確かに意識して声を出す。が、やはりその声は自分の耳には届いていない。これは自分の声が出ていないのか、それとも耳が聞こえなくなっているのかの判別がつかない。
 困ったときに頼りになるのは相棒だ。スマートフォンを探してきょろきょろと視線をさ迷わせれば、サイドにあるテレビ台の上に置かれていた。ぶんちゃん、と声を掛けてみたものの反応する様子がない。これはやはり声が出ていないのだろう、聞こえているのであれば出てきてれくれるはずだ。
 よいしょ、と体の向きを変えてスマートフォンを手に取る。とんとん、と画面を叩くと、勢いよく白いもやもやが飛び出してきた。

『あれっ起きたんか恭! どっか変なとこないか? 大丈夫か?』
(どうしようぶんちゃん! 俺声出てないっぽいし足動かないんだけど!?)
『……? 何や口ぱくぱくさせて……?』
(だーから! 声が! 出ない!)
『……あ!? 声出えへんのか!?』

 どうすれば伝えられるのかが分からない。汲み取ってくれたらしい『分体』の言葉にこくこくと頷くと、ぴょこんと浮かび上がる慌てた顔文字。

『ちょっと待てこういうときは……せや響や!』
(ひびちゃん?)
『よっしゃ呼んでくる!』
(早いよ!?)

 何が何だか分からない。『分体』が少しの間消えた後、呼んだ! とすぐに戻ってくる。あれやこれやと話しかけてはくれるが、声が出ないのでどうやって返事をすればいいのかが分からない。そもそもどうして声が出なくなっているのか。何があったのか全く思い出せないのが、どうにも歯痒くて気持ちが悪い。このところ立て続けに記憶が飛んでしまっていて、自分の頭はどうなってしまったのだろうかと不安になる。
 うう、と考え込んでいる間に、外でばたばたと足音が聞こえて。あ、と顔を上げた瞬間に病室の扉が開いた。

「恭! この馬鹿、お前また一人で行動したな!?」
(ひびちゃん)

 明らかに怒っている響に、ごめん、とジェスチャーを返すことしかできない。眉を寄せた響の後ろから琴葉の姿。

「乙仲くん早い……」
『響、琴葉! 恭が声出えへんって!』
「……何て?」

 現れた二人に告げた『分体』の言葉に、二人は顔を見合わせて。すぐに駆け寄ってきた琴葉が恭の額や首元に手を当てていく。そして喉の上に手を重ねて、じっと手を当てて――不意にその手が温かくなった。『ヒーラー』の能力の一つである治癒手段、『ヒーリング』を使っているのだろうと気付くまで、数秒。声を出してみようとするものの、やはり声が出る気配はない。

「……恐らくは極度のストレスを感じたことによる一時的な失声でしょうね。多分数日もあれば元に戻ると思う。ちょっと入院しときなさい、そうでもしないと柳川くん大人しくしないでしょう」
(言い返せない……ごめんなさい……)
「それで、他に何か異常はある?」

 声が出ないということは分かっているつもりではいるのだが、どうしても話そうとしてしまう。足を指させば分かってもらえるのだろうか。どうやって伝えようかと四苦八苦しているのがすぐに分かったのだろう、琴葉が響に視線を向けた。

「書いてもらうより早いし、乙仲くんちょっと通訳してもらえる?」
「ハイ。悪いな恭、考えてること読むぞ」
(あ、だからぶんちゃんひびちゃん呼んでくれたんだ)
「……気付けよお前……」
(ごめんごめん。あのさひびちゃん、俺全然足が動かないんだけど)
「……は? 足が動かない?」
「足……?」

 響も琴葉も、その言葉に怪訝な表情になった。琴葉の手が恭の足に触れる。触れられているのは目で見て分かるのに、本当に何も感じない。琴葉が触っているのが自分の足ではないと言われても信じてしまいそうだ。
 どうして確かにそこにある筈の足の感覚を、失ってしまっているのか。ぞっとした感覚が背筋を上っていくのを感じる。

「……恭、大丈夫か?」
(……だいじょぶ……)
「顔色悪いぞ、無理すんな」
(ごめん……)
「ここに『  』が柳川くんを連れてきたとき、腹から腰にかけての傷はあったけど……。足を怪我してる様子はなかった筈」
(琴葉先生今何て?)
「あ? 怪我の話か?」
(いや、その前。誰が俺連れてきたって?)
「ああ。今は別にいいだろ」

 別に良いだろうと言われても困る。わざわざ病院まで運んでくれているのなら礼も言いたい。だがしかし、響に答えるつもりはないようだった。恐らく名前であろうその箇所だけが、ざざ、と何かノイズがかかったかのように上手く聞き取ることができなかった。
 響が誤魔化そうとするということは、小夜乃の術の関係なのだろうか。そうであれば響は絶対に恭に教えるようなことはしないだろう。しかし聞こえないということは、術を強められているのだろうか。これ以上頭が痛くならないように、記憶がなくなってしまわないように、対処されている。
 今のこの状態では、こうして恭が考えていることも響に筒抜けになっていることは分かっている。だがしかし、響は何も言わずにじっと恭を見るだけだった。恭自身が響に聞こうとして考えていることではないことは分かるからなのだろう。
 果たしてノイズの向こうにあった名前は誰の名前なのか、どうして聞き取れないのか。どうにも気持ち悪さは拭えない。しかしきっと、今の恭では何度聞いてもその名前を聞き取ることはできないのだろう。そうなのであれば、何度聞き直したところでどうしようもない。

「足かあ……、柳川くん今回も何も覚えてないよね」
(うす)
「みたいですね」
「ちょうど小夜乃もいるし、『  』と碓氷さんにも詳しく話を聞いてみることにする。柳川くんはおとなしくしておくこと……って言っても、足が動かないんじゃ勝手にどうこうなる心配はなさそうか」
(うー……仕方ないから寝とくっすー……)
「寝とくって」
「そうね、ゆっくり休んでて。余計なこと考えるのは一回ストップ、気持ちを落ち着かせておくこと。分かった?」
(はあい)

 返事と共に頷けば、琴葉は少しだけ困ったように笑った。心配を掛けているのだな、ということはすぐに分かって申し訳ない気持ちが先立つ。
 いつまでもこんな状態ではいけない。いつか本当に律と一緒に仕事をするようになったとき、このままでは律に迷惑ばかり掛けてしまうことになる。

(あ、ねえひびちゃん)
「どした?」
(今小夜ちゃんいるっつった? 俺会いたいんだけど!)
「あー……琴葉センセ、恭が小夜に会いたいって」
「ああ、そっか。分かった、伝えておく」

 小夜乃とは一度会って話をしておかなければならない。どうして恭に術を掛けているのか、それを聞いておかなければ。とはいえ今の恭では話が出来る状態ではないのだが、響を間に介すなり、筆談でもどうにかすることはできるだろう。小夜乃に会えるときには、落ち着いて話せるようになっているかもしれない。
 一体自分の身に何が起きているのか。不安はあれど、今の恭にはどうすることもできなかった。


 どうやら恭の身に何か起きると、すぐに茅嶋家に連絡がいくようになっているらしかった。
 動けないし暇だなと思いつつもスマートフォンのゲームで遊んでいると、病室に桜とモニカが現れた。桜には何でこんなことに、とわんわん泣かれ、モニカには平手打ちを喰らわされた上で淡々と怒られた。頭痛の心当たりはあった上にそれを黙っていて、最終的にこんな状況に陥ってしまっているのだから怒られて当然だ。
 意思疎通については結局、スマートフォンに打ち込めば代わりに『分体』が読み上げてくれる、という形を取ることになった。言葉が何故か関西弁に変換されてしまうのでどうにも妙な感覚はあるが、響を介さないのであればそれが一番手段としては早い。
 桜が色々と世話を焼いてくれて、明日も来ます、とはっきり宣言され。迷惑を掛けて申し訳ない気持ちはあるものの、ありがとうと笑った。元気になった暁にはきちんとお礼をしなければならない。
 そしてその日の深夜。どうにも上手く眠れずにごろごろと寝転がっていると、こんこん、と病室の扉をノックする音がした。

(……え、こんな時間に?)
「恭、入りますわよ」
(小夜ちゃん!)

 ――それは、久しぶりに聞く気がする小夜乃の声。
 そっと病室の中に入ってきた小夜乃は、いつもと何ら変わらないように見えた。入口からそれ以上入ってくることもなく、じっと恭のことを眺める。そして、大きな溜め息をひとつ。困ったように、笑う。

「……全くいつまで経っても手の掛かる子ですわね、本当に」
(小夜ちゃん……)
「今日は話に来たわけじゃないですから、話そうとしなくていいですわ。ちょっと私の独り言を聞いていてください」
(ひとりごと?)

 首を傾げた恭に、小夜乃はもう一度溜め息を吐いて。扉を閉めるとその扉に背中を預けるかのように寄りかかって、小夜乃は目を伏せた。ただそれだけで、表情が読み取れなくなる。

「……恐らくもう気付かれているかと思いますけど、恭に術を掛けたのは確かに私ですわ。貴方の頭痛の原因は、確かに私で間違いありません」
(あ……)
「けれど貴方を傷つけるつもりなど毛頭ありませんでしたこと、そしてこんなことになってしまうなんて当時は思ってもいなかったことは、分かっていただければと思います。……ごめんなさい、本当に」
(小夜ちゃん……)

 表情が見えなくても、辛そうにしていることが見て取れる。絶対に彼女は嘘を吐いてはいないと、確信ができる。恭を傷付けるつもりの行為ではなく、恭のためにしてくれたこと。――しかし、そもそもどうしてそんなことをすることになったのか。恭の身に何が起きた結果、どうして小夜乃は術を掛けるという行動に出たのか。
 始まりが、分からない。何一つ。

「何も考えないでください、恭。貴方に掛けた私の術自体はもう解けているので、あとは貴方の問題ですわ」
(え、解けてるの?)
「『  』に会うことがあればその時点で自動的に解けるようにしている……、なのに今貴方が『  』を思い出せないと言うのであれば、それは貴方の問題です。まあ、そもそもそれ以前に妨害されているのでしょうけれど」
(ぼーがい?)

 小夜乃は一体、何の話をしているのだろうか。何も分からずに、思わず表情も険しくなる。どうしてこんなときに声が出ないのだろう。何を聞きたくても、相手に届かなければ答えは返ってこない。だからこそ最初に小夜乃も独り言だと言ったのだろうが、恭にも小夜乃に聞きたいことがある。
 知りたいことは、聞きたいことは、あるのに。教えてもらうことは、できない。

「……ああ、そんなに不安そうな顔をしないでくださいな、恭。あなたなら大丈夫ですわ、自力で何とかできます」
(自力……)
「私はこの先できる限り、貴方がもとに戻れるための手助けはいたしますし。まあ、術を掛けていた張本人である私にこんなことを言われても困るでしょうけれど」
(……大丈夫、俺、小夜ちゃんのこと信じてるよ)

 小夜乃の声は、優しい。絶対に嘘を吐いていない。そう信じられる。
 思い出せるのだろうか。何を忘れてしまっているのかも、今の恭には分からない。話すことも動くこともままならない今の恭に、一体何ができるのかさえ分からない。それでも、何故か当然のことのように大丈夫だと思えたのは、小夜乃のお陰なのだろう。
 ――『ディアボロス』のことを信じるだなんて馬鹿じゃないのかと言われても、小夜乃のことは信じたいと思う。出会ったときからずっと、小夜乃には助けてもらっているのだ。だから、彼女のことを疑いたくもなければ傷付けたくもない。

「今日はちゃんとゆっくり眠りなさいな、恭。……また貴方とくだらないことを言い合って笑える日を、楽しみにしています」

 その言葉が耳に届いた瞬間、唐突に強い睡魔に襲われて。それに逆らうことなく、恭は目を閉じた。