Colorless Dream End

02

「本当にもう行ってしまわれるんですか……」
「うーん、ごめん。仕事溜まってるからねえ……」

 数日後の夜。律は恭と桜の3人で空港にいた。まだ日本でやることが残っている雪乃の代理として、現在茅嶋家で引き受けている仕事を片付けに行くためだ。すっかり当主代行とも言える扱いをされていて、少し気が重くもある。とはいえ立場上跡継ぎであることは間違いないので、気が重いなどと弱音を吐いてはいられない。恭と桜は律の見送りだ。断ったのだがどうしてもと言って聞かなかった。しょんぼりとしている桜は、やはりあまり元気がない。このところ一人で温室でぼおっと過ごしていることも多いので、気に掛けてはいたのだが。

「大丈夫だよ桜っちー、律さん一か月もありゃ帰ってくるでしょ」
「一か月……」
「まあそんなには掛からないと思うけどね。俺がいない間恭くんの面倒よろしく、桜ちゃん」
「待って何で俺が面倒見られる側なんすか!?」
「桜ちゃんは恭くんみたいに手がかからないので……」
「ぐっ……何も言い返せない……!」

 律と恭のやり取りに、くすくすと桜が笑う。その頭をよしよし、と撫でて。
 桜のことは心配だが、仕事に関してはどうにもならない。恭だけではなく椿もいる、雪乃もあれこれと多忙ではあるだろうが日本にいる、桜自身友人に恵まれていることも知っている。一人ではないし、ゆいっくりと時間を掛けてでも元気になれるのならそれが一番いい。こういうものは、時間が癒してくれるのを待つしかない。律は千里の代わりにはなれないし、勿論律にとっても千里の代わりはいない。
 どうにも未だに実感というものはあまりない。それでも仕事を終えて帰ってきて、そして家に帰った時に千里が出迎えてくれることはもうない。きっとそのときに実感するのだろう。あまり考えたいことではないが、それが現実だ。

「桜ちゃんのことよろしくね、ユグ」

 頼んでおこうと思い出して声を掛ければ、一瞬だけふわりと桜の周囲を桃色の蝶が舞って、消えていく。
 ユグ――『世界樹の断片』ユグドラシル。かの神話の世界樹の名を冠しているその『彼岸』の『カミ』は、千里がずっと『サモン』の術で力を借りていた『彼岸』だった。いつの頃からかその力は『神憑り』である桜に受け継がれている。彼女にはなにがあってもユグがいる、というのは律にとってみれば何より心強い。ユグは間違いなく桜のことを守ってくれる。そのために千里は、『世界樹の断片』ユグドラシルの力を桜に譲り渡したのだろう。

「んじゃ律さん、気を付けて行ってらっしゃいっす。何かあったら連絡入れるっす、多分俺じゃなくてぶんちゃんが」
「……いや本当にいい加減ぶんちゃんが俺に連絡する前に恭くんが連絡できえるようになってくれないかな……。ま、後のことはよろしくね。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて、律兄様」
「はあい」

 二人に手を振って、律は出発ロビーへと向かう。今回の仕事先はスペインだ。仕事仲間が先に現地で待っている手筈になっているので、合流したらまずは仕事の詳細を確認しなければらなない。今回はスペインでいくつかの仕事が重なっていることもある、一つ一つ確実に処理するためにも何から片付けるかを考えなければ、などと仕事の算段に思いを馳せつつ。
 この時は確かにまだ、律は日常の中にいたのだった。


 スペインにて。
 空港に到着して外に出る。長旅に溜め息を吐いていると、急に後ろから思い切り抱き着かれた。やられていることは不審者のそれだが、顔を確認しなくても誰の仕業かすぐに分かる。

「重いんだけど……」
「はっはー。リツ、ひっさしぶりだねー!元気?」
「あのさあアレク、毎度熱烈な歓迎はありがたいんだけど、熱烈すぎてしんどい」
「クールだなーつれないなーそれでこそリツだ。元気そうで何よりだね。ところで血を分けていただきたいんですがだめですが直射日光に晒され過ぎて死にそうです」
「トマトジュース奢ってあげるよ」
「ワアオ殺す気だね?」

 ははは、と笑いながら律の肩をばしばしと叩く、長身の金髪金瞳でつばの広い大きな帽子を被った男。仕事仲間の一人のアレクサンダー=F=ハートフィールド、通称アレク。吸血鬼の『化生』で回復術に特化しており、好きなものは日本人、嫌いなものはトマトジュース。吸血鬼としてはまだ若い部類に入り、そのビジュアルも律より年下のようにも見えるが、既に律の数倍は生きている。

「しかし意外だな。今回の仕事はユキノが来ると思ってたのに」
「お祖母様の件がまだ全然片付いてなくてね。何、俺じゃ役不足って?」
「全然! 寧ろとっても安心! ユキノに怒られない! 最高!」
「……アレクって一体普段何をやらかして怒られてるわけ?」
「そこは聞かないお約束だよ! とりあえずホテルにチェックインしてからひとつ仕事の話をするとしようか。ほとんどの仕事の依頼人にはもう会って話をしてきたから、今回の仕事に関しては律は面倒なことをしなくてOKだよ」
「ほんと? 助かるよ、ありがとう」
「お礼代わりに血をいただければと思うのですが」
「それは駄目ですね」

 真剣な表情で要求されても困惑しかできない。怪我をしているときに血を舐められる程度であれば何の問題もないが、吸血鬼の食事のためだけに噛まれて吸血されるのはあまり良いことではない。そんな下手を打たないとは思うが、最悪自分も吸血鬼になるか眷属になるか、その前に大多数は死んでしまうのがオチだ。アレクもそれを分かってはいるので、別段本気で要求しているわけではない。
 稀に自制心が利かなくなり、吸血衝動がどうしても抑えられなくなって暴走することはあり、3回ほど黙らせるために交戦したことはある。そんなことが起きないとは限らないので、アレクと仕事をするときはそれなりに注意もしている。しかしそれでも、律はアレクのことが嫌いではない。暴走さえしなければ気のいいよく仕事をしてくれる、陽気な吸血鬼だ。
 ホテルにチェックインしてすぐ、アレクはテーブルの上に資料を広げてくれた。残念ながら仕事で来ているので、ちょっと観光に、などという時間はない。目の前に広がった資料は全て英語で記載されている。当然話も英語で進んでいく。一度恭に海外の仕事へ同行してもらったことがあるが、怒涛の英語量に目を回していた。律にはモニカがいたこともあり、子供のころから当たり前のように英語に触れて教育されてきているため不便もないが、恭に英語を教えるのはかなり無理があるだろうなとは思っている。その点は気が重い。
 そんなことを考えつつ、アルファベットの羅列にざっと目を通していく。
 異変が起きているのは、ホテルから少し離れた山の方。その山中に数か月ほど前から局地的な嵐が発生しているのだという。人を寄せ付けないような雷雨。その天気に見舞われているのは本当に山中の奥深くで、登山道からも離れた人が立ち入るような箇所ではない。当初は然程問題視もされていなかったが、数か月も続くとなればそれは異常事態だ。
 その雷雨が自然現象ではないのではないか、魔術的なものなのではないか。そういう予測も立てられ何人か『此方』の人間が調査に出向いたものの、やはりほとんど調べることも出来ずに帰還しているというのが現状だとのことだった。行き先を阻んでいる雨の壁。一歩中に立ち入れば、何も見えなくなるほどの。

「まあ確実に中に何かいるね」
「問題は山の奥深くってところだねえ。登山になるから、きっちり装備を整えないとうっかり遭難するかも」
「……俺そんな体力ないんですが……」
「ははー。ユキノだったら確実に山ごと吹っ飛ばして地形変えちゃうよね!」
「災害じゃん。洒落にならないところが怖いそれ」

 雪乃ならやりかねない。
 山の標高は2200メートル前後。ある程度近くまでは車で行けるようだが、高さよりは場所が登山道からかなり離れていることが問題だ。登山など本当にろくにしたことがない律のような初心者がそこに行くのはかなり手厳しいように思える。
 ――だからこそ、今回のパートナーとしてアレクに白羽の矢が立ったのだろう。

「アレク」
「うん?」
「『何』に『変身』したら行けると踏む?」
「分かってたけどやっぱりそう来ちゃうかー」

 アレクは何にでも『変身』ができるという特性を持つ。『ヒーロー』の『変身』とは違い、それこそ別人に『変身』したり、吸血鬼らしく蝙蝠や霧に姿を変えたり、アレク自身が想像した『実在しない存在』になることも可能だ。
 律が今から登山の用意をして、山登りのいろはを覚えて、自分でどうにか道を切り開くような時間は取れない。アレクのそういった技能を生かす方が、遥かに早いだろう。

「空飛んだ方がいいかな?」
「……俺まだ死にたくはないなあ」
「死なせやしないさ! ユキノが怖いじゃないか!」
「その理由はどうよ」

 呆れた溜め息をひとつ。とりあえずは情報収集を進めて、その間にアレクにどうにか辿り着く方法を考えてもらうしかない。魔術的な要因を孕んで雷雨が起きているのなら、上手く対抗すれば打ち消すことは不可能ではないだろう。幸いというべきか、律の得意魔術は雷だ。どうにかすることはできるだろうし、どうにもならなければその時はその時考えるしかない。緻密に計画を立ててしまうと不測の事態に対応しにくくなってしまうので、それくらいの緩さは必要だ。

「まあそう来るだろうなと思ってはいたからね、どうにかするよ。任せて!」
「ちょっと心配だけどまあ、任せた」
「リツは長旅で疲れたろう? 今日はゆっくりするといいよ。明日から本格的に動くことにしよう」
「そうだね。ありがとう」


 仕事の基本は調べ物。あれこれと情報を調べた結果、律が目を留めたのは16、7年前の気象情報だった。

「1年丸々雷雨か……」

 場所としては少し違うようだが、それでも国内の山中で局地的に一年雷雨が降り注いだことがあるようだった。状況的にこの時と同じことが今現在起きているという可能性は十分にある。
 雷雨に見舞われている場所に『何か』がいるとするのなら、このときと同じものがいるかもしれない、と仮定して。果たしてここには何がいたのだろうか。何より、このときは1年間ずっと放置していたのだろうか。あるいは誰かが解決したのか――誰が?
 これは雪乃に聞いてみてもいいかもしれない、とふと思う。この頃であれば既に雪乃は茅嶋家の当主だった。知っている可能性は十分にあるし、アレクは何も言っていなかったのでこのことは知らないのだろう。時差を考えると少し微妙な時間ではあるが、思い立ったときに行動しておきたい。すぐに電話を手に取って、コール。コール音が鳴り始めて数回、雪乃が電話に出た。

『何時だと思ってるんだ馬鹿息子』
「面倒なので時差の計算しませんでした失礼を。起きてるじゃないですか」
『まあな。何か問題でも起きたのか?』
「いえ。少しお伺いしたいことが」
『何だ? 今回の仕事のことはモニカに全部一任してたから、正直今お前がどこで何の仕事してるかも知らないんだけども』
「まさかの丸投げ」
『信頼してるからだよ。モニカのことも、律のこともね』
「っ……」

 不意打ちで投げられたその言葉に、思わず言葉に詰まる。いつも手厳しい雪乃にそういうことを言われると、どうにも弱い。元々ずっと多忙な雪乃の仕事の一端を、信頼して任せてもらえている――というのは、こそばゆくて恥ずかしい。
 律の戸惑いにすぐに雪乃は気付いたのだろう。鼻で笑うような声が聞こえて、はっとする。

『で? 用件は』
「ええと。まず俺、今スペインにいるんですけど」

 雪乃は何も知らない、ということを念頭に置いて。かいつまんで今回の仕事の概要を説明する。大体のことはアレクがやってくれているので、律は調査して片付けるだけだ、ということも踏まえて。

「……で、まあ調べてたら16、7年前にも似たようなことがあったとのことなので、もし『何か』がいて誰かが仕事として何かをしたのなら、お母様なら何かご存じなんじゃないかと考えたんですが」
『お前ねえ……16、7年前とかいつの話だ……年間どれだけ仕事してると思ってる? いちいち覚えてないよそんなこと』
「ばっさり」
『あー……でもまあ、心当たりはないこともないな』
「あるんじゃないですか」
『私がした仕事じゃあないけれどね。有り得る可能性という点では心当たりがあるよ』

 雪乃の言葉の意味が分からずに、律は電話を手に持ったまま首を傾げる。
 仕事をしたわけではないが心当たりがある、ということは雪乃の知り合いがその仕事をしたということなのか。それとも、そこに『何』がいるのか心当たりがあるという意味なのか。

『律、スペインにいるんだろ?』
「はい」
『そこで雷雨。16、7年前にも同じことがあったとくりゃあ、多分ビンゴだね』
「何ですか。もったいぶらずに教えてくださいよ」
『いや、教えない』
「は?」

 何を言っているのかと耳を疑った律の他所に、電話の向こうで楽しそうにあはは、と笑う声がする。何がおかしいのか分からない。
 本当に――我が母親ながら、よく分からない人だ。

『行ってみればいいよ。面白いものが見れるから、多分』
「多分って……」
『律にとっては別段悪いモノではないだろうし、まあでも万が一のことがあったらお前じゃちょっと無理かな……それは気を付けた方がいい』
「全然意味が分からないんですけど!?」
『そういうことだよ。まあ死にゃしないだろ多分。頑張れ』

 何をどう頑張れというのか。
 思わず溜め息も漏れる。それでも雪乃が詳細を明かさないということは、それなりに理由もあるのだろう。変なもの――ではない、ということだけは確信が持てる。
 雪乃がこの調子なのであればモニカにも聞いてみようか、とふと思ったものの、先に雪乃に聞いてしまった時点でアウトだろう。雪乃がこの調子であるのならばモニカには口止めする可能性は高い、聞いたところで教えてはもらえない。聞く順番を間違えたかもしれない、と今更思ってももう遅い。

「はー……。お忙しいところすいませんでした。さっさと片付けます」
『そうだな、他にも仕事は山積みだからな。頑張ってくれ馬鹿息子』
「はあい……」

 分かってはいたが――すぐには、帰れなさそうだ。