Colorless Dream End

01

 シャワーを浴びて身支度を整えてから部屋に戻ると、寝ているだろうと思っていた彼女はベッドに座ったままぼんやりと窓の外を眺めていた。それなりに付き合いは長い筈なのに、見たことのないい表情をしていて一瞬息が詰まる。しかし彼が戻ってきたことに気が付いた彼女はへらりと笑って――それはいつもと変わらない彼女の表情だった。

「なっがいシャワーだったねえ」
「……るっせえよ」

 頭冷やしてたんだよ、とは口にしなかった。何もかもが終わった後、頭を冷やさなければならなかったのはお互い様だ。何をやっているのだろう、と思う。
 何があっても、どうあっても。彼は彼女とこういった状況になるべきではなかった。二人で馬鹿なことをやってしまったのだという自覚はある。

「……お前も起きたならシャワー浴びれば」
「んー」
「俺は帰るけどお前どうすんの」
「もう一眠りして帰ろっかな」
「……んじゃ精算しとくわ」
「おや、悪い男の癖におっとこまえだねえ」
「だからうるせえっつの」

 茶化す彼女の言葉に、彼は眉を寄せる。いつも通りを装う彼女の姿がどうしようもなく痛々しく思えるのは、どうしてなのだろうか。こちらもいつも通りに振舞えばいい。それで終わりなのだから。――終わり。何が。
 ここで、全部が終わりだ。大学生活4年間で得たもののひとつを、完膚なきまでに壊したのだから。
 聞こえたのは大きな溜め息。彼女は彼から目を逸らす。穏やかな色をした間接照明に照らされたその横顔に、先ほど起きた出来事が否が応でも重なって。
 忘れることなどきっとない。今は笑い話にもならない。

「……ほんと、君がもうちょい自分勝手ならな」
「何が」
「優しいが過ぎるよ」
「……お前相手に自分勝手に出来る程人間出来てねえよ」
「あははっ」

 部屋の中に、笑い声が空虚に響く。ずきんと落ちてくるのは胸の痛み。
 望んだのは彼女で、傷つけたのは彼だ。

「……ほんと優しー男。……サイテーなクズだなっ」
「なあ、」
「ありがとーね、アタシのワガママ聞いてくれて」
「お前」
「帰りなよ。同居人さんによろしくな!」
「……聞けよ」
「聞かないよ」

 声が震えている。きっと泣いている。彼は一歩も動くことができなかった。動いてはいけない気がした。動きひとつで自分や彼女の運命はきっと大きく変わるから。変えた方がいいのかどうか、今の彼には判別がつかない。
 彼の方を向かないまま、彼女はひらひらと手を振る。きっとこのまま彼女と別れるべきではない。今彼女と別れたら、二度と会うことはないだろう。それくらいは分かるだけの付き合いをしてきた――彼女がそういう人間であることを、彼はよく知っている。
 知っているからこそ、今日の誘いに乗るべきではなかった。いや、乗るつもりなどなかったのだ。しかし結果としてこうなってしまっているのだから、手に負えない。

「……気をつけて帰れよ」
「おうっ。じゃあねー」

 結局気の利いた台詞など何も思いつかなかった。すぐ露見することが分かっている嘘も吐けなかった。笑いながら返されたその言葉に目を伏せて。
 部屋を出てドアが閉まるその瞬間、その言葉は確かに聞こえた。

「――ありがと、ばいばい」

 それは、全てが始まる少し前の出来事だ。


 律が27歳の夏の暑い日のこと、祖母である千里が亡くなった。85歳だった。
 このところ母である雪乃の手伝いを兼ねて海外を飛び回っていた中、偶然と言うべきだったのか、それとも帰ってくるのを待っていてくれたのか。律と雪乃が日本に帰国している間の出来事だった。元々千里は数か月前から病に伏していて、最期は穏やかな表情で眠るように亡くなった。
 千里が亡くなって、実質千里がずっと面倒を見て可愛がっていた椿と桜の兄妹は泣きじゃくっていた。対する律は泣く暇もなく、どうしても葬儀の準備に追われてしまう。二人と話をする時間もろくに取れない。
 裏稼業である『ウィザード』の家系としては新しい方の家系であるとはいえ、千里は血筋で『ウィザード』になった訳ではない人間の世話をよくしていたらしかった。一報を聞いて世界各地から様々な人間が集まり、父親の会社の関係者も集い、その人数はかなりのものだ。会社関係の人間に関しては任せられるが、こと相手が『ウィザード』となるとそうもいかない。ただ参列するだけの予定だった恭の助けも借りて何とか、といった状態だった。

「うええマナー覚えきれないんすけど……ていうか外人さんいっぱい来るっす無理っす……ワタシエイゴワカリマセーン……」
「どう聞いても日本語だね、うん。ぶんちゃんが同時通訳してくれるって言ってたでしょ、頑張れ頑張れ」
「……うう……」

 慣れないことばかりで、恭はかなりパニック状態になっていた。それでも慣れてくると元々人懐っこい性格の恭はあちこちで可愛がられていた――どちらかと言えば逆に面倒を見てもらっていたのかもしれない。こちらが心配する必要は特になかったようで、そのことにはほっとする。
 雪乃と二人、色々な準備や段取りに追われ、来訪してくれる人への挨拶、会社を継ぐ予定はないとはいえ長男だということで椿と二人で会社の人間にも挨拶に回ったりと、目が回る忙しさだった。悠時と芹も来てくれていたのだが、少し立ち話ができた程度でほとんど何の話もできていない。悠時からは手伝おうか、と連絡が来ていたことに後で気が付いた。確認する時間もなかったことを申し訳なく思うものの、そう言ってもらえていたのはありがたい。
 そんな状況で、ようやっと一旦落ち着いたのは通夜の夜も更けた頃。

「はー……肩凝った……」
「おう、お疲れ馬鹿息子。スーツ着崩れてんぞ」
「ていうかもう着替えたい」
「もうちょい我慢しろ。まだまだ人は来る」
「はーい……」

 一日中スーツで過ごすのは慣れているが、さすがにネクタイくらいは緩めたい。弔問客の波が落ち着いてすぐ、恭はスーツのままロビーのソファで爆睡しているのを見かけた。本当によく頑張ってくれたと思う。椿もくたくたになっていたが、こちらは知らない間に普段着に着替えたようだった。眠たそうな顔をしているが、せっせと後片付けをしてくれている。
 そして――桜は、千里の傍から離れない。自分が線香の番を一晩中するのだと言って聞く耳を持たなかった。少しくらい休んだ方がいいと声は掛けたが、恐らくこのまま本当に離れないつもりだろう。桜は本当に千里によく懐いていた。思うところも多いだろう、無理に引き剥がすこともできない。心配した雪乃がモニカに頼んで傍についてもらってはいる。一人にするのは、さすがに心配だ。

「お前はいいのか?律」
「ん?何がですか」
「おばあちゃんっ子だろ、お前だって」
「ああ、まあ。俺母親も父親も忙しい人でお祖母様に育てて貰ったようなものですしね」
「嫌味か」
「事実でしょ。……寂しいですけど、今俺がしっかりしなきゃ、椿くんと桜ちゃんが困るでしょう。俺、『お兄ちゃん』ですし」
「……よく出来た馬鹿息子で可愛げがない」
「お母様の息子ですから」
「言いやがる」

 あはは、と笑う雪乃にもさすがに疲労の色が伺える。覚悟はしていただろうが、雪乃にとっても千里の死はつらいはずだ。千里は雪乃にとって、『ウィザード』としての師だった。長い付き合いの中でそこには確かな信頼があって、だからこそ千里は雪乃に『ウィザード』としての『茅嶋』の家を託したのだろうから。何を言ったところで雪乃が律の前で弱ったところを見せることはないだろうが、あとでゆっくり父と二人にしてあげよう、とぼんやり考える。
 千里が病に伏してから、いずれは来る日だと覚悟はしていたつもりだ。『ウィザード』であろうと、寿命には逆らうことはできない。人間である限り、命は有限だ。悠久に近い時を生きる者はいるが――それこそモニカなどは20代の外見でありながら100年以上生きていることを知っているが――それは何らかの力を借りて生きているというだけであって、寿命がない、ということではない。

「はーあ。お義母様がいなくなって、世代交代かなー、そろそろ私も引退かなー」
「いやそれはちょっとまだ気が早いのでは」
「そう?まあまだ跡継ぎがちょっと頼りないか。そう簡単に引退は出来ないな」
「……そりゃ良かった」
「でも律」
「はい?」
「お前もそろそろちゃんと考えないとな」
「……ずっと考えてますよ」
「恭のことも?」
「……当たり前です」

 この先、恭が大学を卒業したら律と共に仕事をする、というのは既に確定した路線のようにはなっている。だがしかし、律としてはこの先恭がほかにやりたいことを見つけたらいつでも断ってくれていい、と本人にも伝えている。今のところ恭に断る気はさらさらないようではあるが。
 恭が本当にこの先律のパートナーとして仕事をしていくのであれば、今までのように事件に首を突っ込むのとは訳が違うことを教えなければならない。正当な報酬の発生する仕事なのだから、なあなあで片付けるわけにはいかないことも多くある。そういったことは本当に一緒に仕事をするようになってからでいいか、とは思っているが恭がきちんと理解できるのかどうかは心配なところだ。
 恭のことを『茅嶋』の『ウィザード』としての仕事に引き込むということは、律が恭の命を引き受ける、ということでもある。律にとってもそれなりの覚悟が必要なことだ。心のどこかではやはり『普通』に生きてほしいと思う気持ちは、なくならない。

「さーて、休憩は終わりにするか。律、桜のところに行ってやりな」
「え。でもまだ誰か来るんじゃ」
「いいよ、もう私一人で充分だ。お前も今日はかなり疲れてるだろ、ありがとう」
「……お母様」
「明日も頼んだよ」

 そう言って笑って、ひらひらと手を振りながら雪乃は去っていった。気を遣うつもりが逆に気を遣われてしまって、苦笑うことしかできない。
 宙を見上げて、溜め息をひとつ。一人になるとどうしても考えてしまうのは、千里のこと。
 最期に交わした会話は何だっただろうか。温室にある花が綺麗に咲いただとか、そんな他愛のないことだったような。そして何気ない会話の中で、「律のピアノが聴きたいね」と言われて、あの時も笑うことしかできなかったのだ。
 目を落としたのは、右手。今日は会う人数が多いことは分かっていたので、最初からずっとレザーグローブで隠している。2年半ほど前にその場所に負った傷は未だ治癒することなくそこに存在していて、そして相変わらず生々しい傷痕となっていて、一向に治る気配はない。
 律がピアノを辞めざるを得なくなった、その原因。千里は律のピアノが好きだとずっと言ってくれていたから、こんな時に弾くことができないのは本当につらい。本当なら自分のピアノの演奏で送り出すこともできたかもしれないのに。けれどその傷は、律が抱えて生きていかなければならないものだ。悔いても仕方がない。
 もう一度息を吐いて立ち上がる。桜の様子が気にかかるのは確かだ。彼女はまた泣いているだろうか。疲れているだろうから、少しでも寝かせないと体に障る。元気に過ごしているとはいえそれほど体が強いわけではない、倒れてしまわないかが心配だ。きちんと言い聞かせれば少しくらいは寝てくれるだろうか、と考えながら歩き出して。

 ――この時、律はまだ何も知らなかった。
 律が知らないところで動き始めた、事件のことを。