One Last P"l/r"aying

14

『それでは私はこれで失礼しますね。……あ。茅嶋先輩、ここは情報料として奢って頂けます?』

 呆気に取られた律を余所に、奈南美は飄々としたものだった。当たり前のように会計を押し付けられたことはとりあえず置いておくとしても――目一杯絶望してから死ね、などという台詞、ついこの間が初対面の人間に対して思うこととは思えない。
 その台詞を、果たしてどう捉えればいいものか。そのまま授業に出る気分にもなれずに、律は玲の入院している病院へと足を向けた。この状態で授業に出ても身に入らないし、ピアノもろくな音が出ないであろうことは想像がつく。
 辿り着いた病院、4人部屋の病室に足を踏み入れる。奥の窓際のベッド、カーテンの向こう側で、玲は静かに眠っていた。

「あ。……ええと、茅嶋くんね」
「そうです、こんにちは。……えっと、まだ相変わらず?」
「……何も」
「そうですか……」

 眠っている玲の隣には、玲の母親が座っていた。憔悴した表情に、昨日から一睡もしていないのが見て取れる。娘がこんな状態では無理もない話だ。ちゃんと食事しているのか心配になるが、恐らく喉を通らないだろう。昨日が初対面である以上、どこまで踏み込んで話していいかも分からない。
 身体的に異常がない為、ひとまず玲には栄養補給用の点滴が繋がれている。どんな医学的な処置をしたところで、その処置で玲が目を覚ますことはないだろう。この病院に『ヒーラー』がいるのならもう少し良い状況に持っていけるのかもしれないが、そうそう『ヒーラー』がいる病院はない。知り合いにも今のところ『ヒーラー』はいない――家を頼ることも出来なくはないが、この場合は頼るのが難しいだろう。
 結局のところ、玲を起こすためには昨夜奈南美と、或いは奈南美が起こした事象と何があったのかを知らなければならない。手がかりはあの真っ赤に染まった部屋だけで、今は警察が調査中だろう。部屋があの時のままの状態ではない可能性は高いが、しかしどうにかしてあの部屋を調べる他ない。普通の人間が見れば『普通』のものでも、『此方』の人間が見ればそうでないということもある。

「……茅嶋くんて、玲とどういう関係なの?」
「えっと、ただの後輩です。いつもお世話になってます」
「そうなのね。家に行くくらいだからてっきり彼氏かと思った」
「違います違います」

 反射的に思い切り否定してしまう。その手の類の話は茶化すと玲の機嫌を損ねかねない。玲の母親は少しだけおかしそうに笑った。しかしその笑顔はやはり疲労が隠せない。

「玲がよく話してくれるピアノ専攻の後輩って、もしかして茅嶋くんのことだったのかな」
「確かに俺はピアノ専攻だし、恐らくそれは俺のことだと思います……一体何の話をされてるんでしょう、俺」
「それは母娘の秘密」
「……何かあれですね。玲先輩のお母さんですね、やっぱり」
「あら。よく似てないって言われるのに」
「似てますよ、何か……うん。お身体、気をつけてくださいね」
「ありがとう。うちの娘が迷惑かけて、心配もかけちゃって、本当にごめんなさい」
「謝らないで下さい。俺、本当に玲先輩には無茶苦茶お世話になってるんです」

 疲れた顔で頭を下げる玲の母親は、何も知らないのだ。『此方』も『彼方』も、『彼岸』のことも。『ウィザード』として自分の娘がどれだけ危ない橋を渡ってきているのかも。
 眠っている玲に視線を向ける。いつもと違って静かな玲は、何故だかひどくか弱く見えた。


 その日の夜中。律は一旦家に帰って仮眠を取ってから、姿を隠して玲の部屋に侵入していた。
 やはりこの部屋を調べるところからしか話を進められない。奈南美があれ以上律に情報を開示するとは思えないし、いつ目が覚めるか分からない玲先輩が起きるのを待っているのはもどかしい。念の為何かあった時の為に、すぐ悠時に連絡が取れるようにはしている。最悪、律自身に何かが起きた場合は実家に連絡して貰うのが一番早い。悠時なら全て事情を把握しているので、何かあってもきちんと説明してくれるという信頼もある。

「お邪魔しまーす……」

 中に入ると魔術で必要最低限の光源を作って、部屋を見回す。見た雰囲気の状況自体は昨日と然程変わってはいない。部屋は真っ赤に染まっている。ただ、部屋にあったものは少し減っているようだった―――警察が持って帰って調べているのだろうか。
 部屋中にペンキを撒き散らしたかのような赤い部屋。ムラもなく丁寧に、小物の裏に至るまで全て。これを人の手でやるとすればあまりにも労力が掛かりすぎる。可能性が高いものとしては悠時が話した『赤い部屋』、そう呼ばれる『何か』の影響だとは思われるが、それ以上の見当がつかない。
 そんなに広い部屋ではない、ごく普通のワンルームだ。部屋をぐるっと一周、目についたのは部屋の片隅に置かれた姿見。鏡は色んな『気』が集まりやすい。『通り道』としても使われるようなもので、良いものも悪いものも集まるのだから、原因のひとつとして考えられないことはない。
 姿見の前に立ってみる。律が映っているだけの、何の変哲もない鏡だ。少し安易すぎたか、と肩を落とす。何かあればラッキー程度のものだな、と思いながら溜め息を吐いて。
 ぽたり、頬に何かが触れた。

「……?」

 濡れた感触。けれど鏡には何も写ってはいない。上から何か落ちてきたのだろうか、と天井を見上げようとした瞬間、鏡に変化が起きた。

「……ヤバ」

 思わず呟いたのは無意識で、後退ったのは意識的。鏡の中で、『律』が笑っていた。鏡の前に立っている律と、鏡の中の『律』の姿が違う。頬が濡れても鏡の中の『律』の頬に変化がないのはそのせいだろう。上を見上げようとすればまた、ぽたり。反射的に拭って、ちらりと手に視線を落として、一気に意識が集中した。
 紛れもなく――『血』だ。

「上からと鏡からとか、ちょっとどっちかにしてくんないかなあ……!」

 鏡から『律』の手が伸びてくる中、上からぽたぽたと滴り落ちてくる『血』の量が徐々に増えているのが分かる。鏡から今目を離す訳にはいかない、上は後回しにするしかない。太腿の上で指先を躍らせる形で『リズム』を刻んで、口笛で『旋律』を奏でて、鏡から無数に伸びてくる赤い手を焼き払いつつ、更に後退。玄関に背を向ける形で部屋の出口に近付けば、そこでようやく初めて現状の全景が見えた。
 天井から滴り落ちている『血』の元にあるのは、恐らく女性の頭。そして真っ赤に染まっている天井はその女の頭を中心に渦を巻いて、出てこようとしているのが伺える。自分一人の手に負えるのか、という考えが頭をかすめて、慌てて振り払う。気は強く持っておかなければ、引き摺られる。この間実家に帰った時に祖母に教えてもらった術を使うには準備に少し時間が掛かる、この状況で使い慣れないものを使う余裕があるかどうか。この状態では既にこの部屋からは逃げられないだろう。この場所は既に天井から出てこようとしている何かの『領域』だ。
 どちらにしろ、この状況を何とかしなければ玲があのままになってしまう可能性は高い。否が応でも戦うしかない、何かあれば悠時から茅嶋家に話は通る。どうにかなる、と信じるしかない。

「……よし」

 意識をしっかりと集中させて。鏡も天井もどちらも同じくらいの危険度だろう。玲はどちらと交戦したのか――いや、どちらとも交戦したのだろう。天井の怪異と鏡の怪異は全くの別物、しかしお互いに力を貸し合っている可能性が高く、そしてどちらも今の狙いは律だ。共食いや三つ巴になる可能性は低いし、万が一どちらかがどちらかを食べてパワーアップするようなことになればそれはそれで難易度が跳ねあがる。
 鏡から伸びてくる手は先程一度焼き払った影響で少し燻っている感じはするが、すぐに襲ってくるだろう。天井の方はだらりと長い髪が落ちてきたのが見える。そちらも全部出てくるのも相当まずい予感しかしない。とりあえずは天井を足止めして戻ってくれることを願いつつ、適宜鏡に対応するしかないだろう。やってみて駄目ならその時はその時だ、悩んでいても時間が過ぎるだけ。
 天井を睨み据えて『リズム』を刻んで、再び奏でた『旋律』によって稲妻が天井を駆け回る。既にここが『領域』の中だとすれば、上階の人間のことは気にしないで良いだろう。何か影響があったら申し訳ないなとは思うが、それどころではない。勝手に玲の部屋を『領域』にするのは怖いな、と現実逃避のように考える視線の先、その程度では何の影響もないのだろう、女の身体が出てこようとしている状況は変わらない。
 次の魔術を展開。放った魔術で天井がパキパキと凍りついていく――同じように鏡の方も凍りついていく、しかし、鏡にはあっという間に氷を粉砕されただけだった。天井の方には効果があったようで、出てくる動きは止まっている。

「……鏡はもう割るしかないか……」

 割ることが出来れば、律が映らなくなれば、或いは。しかし先程の一撃で刺激してしまったらしい。ものすごい勢いで有り得ない長さまで伸びてきた手に左足首を掴まれる――触れられる。

「いっ……!?」

 上げそうになる悲鳴を押し留める。噛み締めた唇から血が出たのは分かったが、気にしていられない。続けざまに術式を展開、足首を掴む手を再度焼き払う。手が離れると同時、その場に膝をついてしまったのは不可抗力だ。
 立てない。掴まれただけだというのに、律の左足首はズタズタに切り裂かれている。これは駄目だ、とすぐに理解する。このままでは確実に『連れていかれる』未来しか見えない。ぞっとする感情を押し留めて、何とか気持ちを落ち着かせる。
 動きが止まったと思った天井の方も、再びずるずると出てきている。顔はこちらからは見えないが既に首の辺りまで出てきているような状態で、これ以上の出現はどうにかして食い止めたい。鏡からはうようよと真っ赤な手が数本出てきていて、あの手に一斉に掴まれたら終わりだということを嫌でも理解してしまう。
 ――イチかバチか。
 『リズム』を刻む。これで失敗してしまうようなら、恐らくもう何をしても助からない。鏡の中に連れていかれるか、天井の怪異に喰われるか、どちらかだろう。

「……『茅嶋』の『守り神』なんだったら、俺のこと守って下さいよ、お祖父様」

 皮肉なことだがこればかりは神頼みをするしかない。宗一郎が律を守ってくれるかどうかは、少し自信がないが。
 口笛で『旋律』を奏でるとほぼ同時、鏡の手が律の方へ向かってくる、天井からもこちらに伸びるように手が這い出てくる。しかし律の魔術も既に展開している――這い出てくるよりは、律の魔術の方が早い。
 雷。光の速さのそれが、鏡にぶつかる。鏡が割れる、一部分が反射されて拡散して、部屋中を駆け回る。耳障りな悲鳴は鏡から、そして天井からも。離れているというのに手が伸ばされていたせいか、鏡の破片が律の方にまで飛んできて律の身体を切り裂いていく。集中を乱すことなくそのまま第二波を放つ為の術式を展開――今度は直接、天井を狙って。
 その瞬間、ぐるり、と頭が回って、天井の怪異の顔が、律の方を向いた。血走った女の目が、真っ暗な何も映していない瞳が、けれど確かに律を見る。

「――ッ!?」

 瞬間こみ上げてきたものを、抑えることは出来なかった。慌てて口元に手を当てる、指の隙間からぼたぼたと血が溢れていく。目が合っただけで喉を潰された。声を出そうとするだけで喉が裂けそうな痛みが走る、血が溢れ出てくる。『旋律』が奏でることができなければ、せめて魔法陣を描いて口上を述べるくらいのことが出来なければ、今の律に魔術を使う方法はない。――天井の怪異を攻撃する手段を、失わされた。
 これが限界なのかもしれない。吐血の影響なのか、ぐらりと頭の芯が揺れる。あの天井の怪異は、駄目だ。鏡で時間稼ぎをすることで、あの女を引き摺り出すのが奈南美の目的だったのだろうか。あんなものが出てきてしまったら、このマンションの住人全員が犠牲になってもおかしくないだろう。
 絶対に止めなければならない。玲の銃を借りて持つだけ持っていれば――此処に来る前に術式を律が組み込める形にできないか考えておけばよかった、と今更考えたところで遅いことは分かっている。気が急いていたせいで準備不足だったことを後悔しても、状況は変わらない。
 にたり、と天井の怪異は笑う。邪悪に、不気味に。ずるずると出てくるスピードは増しているように思える。既に腰の辺りまで出てきているような状態になっている――このまま何もしない訳にはいかない。『リズム』は刻めるのだから、問題は『旋律』の方だ。部屋の中にヴァイオリンは見当たらない、恐らく警察が持って行ってしまったのだろう。音階を奏でられるようなものがあれば、どうにか術式を発動させるくらいのことは出来る筈で。
 口の血を手の甲で拭って、律は両手を床の上に置いた。油断すれば、声を出そうとすれば、また血が溢れるだけだ。天井の怪異は見ない、目を閉じて深呼吸、集中。どちらにしても連れて行かれる可能性は高いが、それでもそれなら足掻いてからだ。
 頭の中に思い描いたのは、ピアノの鍵盤。無茶苦茶であることは承知している、上手くいく可能性など限りなく低いことも。床をピアノに見立てたところで、その音階の音が出る訳ではない。それでも指の力の強弱で多少の音の違いは出せる、そうすればもしかしたら。限りなく低い可能性で、きっと無駄な足掻きで、それでもせずにはいられない。
 口笛で吹き慣れている『旋律』を頭の中で譜面に直して、左手で『リズム』を刻みながら、右手を『旋律』を奏でるように滑らせる。口笛ほど上手くいく訳がない、それでも弱々しいものながらも何とか術式は展開していく。あまりにも弱い、本当に子供騙しみたいな構成で、何の役に立つかは分からないものの――やってみないことには分からない。だん、と床を大きく叩いた瞬間、世界が真っ白に染まって。

 しかし、それだけだった。

 発動したことさえ奇跡的なことで、発光しただけ。目くらましにもならないそれに、律は苦笑う。天井の怪異の笑い声が聞こえる。もう全身が出てくる頃だろう。既に律には止める方法が思い当たらない。
 もっと多くの魔術の発動方法を学んでおくべきだった。こんな時に何も打つ手がないというのは致命的で、実際もうここまでだ。ずるり、うるり、と嫌な音が――這い出てくるような音だけが、部屋に響く。
 そして、べちゃり、と女が床に落ちるように降り立った音がして。

「……ぇ、」

 途端喉が楽になって、漏れた声はひどく間抜けなものだった。部屋の赤が剥がれ落ちるように消えて、普通の部屋に戻っている。思わず顔を上げれば、女の姿は部屋の中になかった。何事もなかったかのように消え失せて、全く意味が分からない。
『死ぬ時は、目一杯絶望して頂かないと』
 不意に頭の中に奈南美の声がリフレインする。この事象が、別段律を殺すことを目的としていないのならば。絶望させる為のきっかけの一つとして、あの天井の怪異を引き摺り出すことが目的だったとしたら。それは今ここにいる律の行動は奈南美の思惑通りで、彼女の手中の出来事だということを指す。
 どちらにしろ、これは律の負けだ。あの怪異は天井から出てきて消えた。命拾いした、と喜べるような状況ではない。どうにかしないと絶対にまずいことだけは分かる。

「……ったいまじで……」

 とはいえ、現状身体中が鏡の破片で傷だらけで、足首を動かそうとすると酷い痛みが走って動ける気がしない。漏れた声は喉を潰されていた影響か掠れてしまっている。赤色が剥がれ落ちた部屋の中、代わりに律の血があちこちを赤く染めていて。――状況がまずいのはよく分かる。後始末は茅嶋家を通した方がよさそうだ。
 疲労が全身を圧し潰す。何とか携帯を取り出して、悠時のアドレスを呼び出して通話ボタン。すぐに声が聞こえたものの、緊張の糸が切れたのか意識がぐらぐらと揺れて声が出ない。
 ――何も解決出来なかった。その事実は、律の上に重く圧し掛かっていた。


 目が覚めるとそこは実家の律の部屋だった。
 ぐるりと目を動かして、ベッドの隣、椅子に座って舟を漕いでいる悠時の姿をを見つける。何も話せなかったのにきちんと迎えに来た上、実家まで運んでくれているのはさすが悠時といったところか。傷だらけで気を失ってしまっていたのだから、悠時も戸惑ったことは想像に難くない。

「って……!?」

 身体を起こそうとして、途端足首に走った激痛に思わず声が上がった。その声にはっと気づいた悠時が目を覚まして、律を見て呆れたように笑う。

「おとなしくしてろよりっちゃん、大怪我だったんだぞおめー」
「……スイマセン大変ご迷惑をおかけしました……」
「死んでんじゃねーかと思ったぞマジ」
「いや俺も死ぬかと思ったんだけど何で生きてんだろ……」

 改めて考えてみても分からない。溜め息を吐きつつ自分の身体を確認したものの、足以外の怪我は治療されたようだった。足の怪我が治っていないのは故意――ではないだろう。これは恐らく、治療出来なかったのだ。時折、そういったものはある。呪いのように身体に残ってしまうもの。
 恐らく、鏡の中にいた怪異も本体を倒せたわけではないということでもあるのだろう。鏡を割ることで『干渉』を退けることに成功しただけで、それでは傷は治らないという可能性は高い。

「おばあちゃん心配してたぞー。呼んでくるわ」
「さんきゅ」

 折角教わった術は使えなかった。使うことができていれば恐らく、もう少しどうにかすることは出来ただろう。何にしろこれは完全に律の準備不足が原因だ。もっと様々な可能性を考えなければならない。
 出てきた怪異のことも気に掛かる。見つけ出してどうにかしなければならない。恐らくは奈南美が仕組んでいることであれば、また顔を合わせることにはなるだろう。対策を立てる時間がどれぐらいあるのかが問題だ。さほど時間を掛けてはいられない、いつ何が起こるか分からないのが今の状況だ。
 不意にサイドテーブルに置かれていた律の携帯が震えた。手を伸ばして、発信者を見る。表示されていた名前は玲のもの。
 嫌な胸騒ぎがする。目が覚めたのだろうか、とは何故か思えなかった。そうではなく、恐らくこれは誰かが玲の携帯を使って律に連絡してきただけだという予感がする。
 何とも言えない恐怖を飲み込んで。深呼吸ひとつ、意を決して通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。

「……はい」