Colorless Dream End

04

 これがゲームであれば難易度設定は相当鬼畜だ。
 洒落にならない。軽い気持ちではなかったが、どうしてこんなことを言ってしまったのだろうかと思ってしまうレベル。既に飲まず食わず、休みなく十数時間はぶっ通しの状態だ。空腹と睡魔に襲われてもう体が動かない。
 ぐったりと転がっている律とは真逆に、羽毛に覆われていた半身が人のものへと変化した血のがまじまじと自分の体を眺めている。本来ならあと数か月かかる筈の治療を十数時間で何とかするというのは、本気で無理がある所業だ。しかしそれでも何とかすることが出来たのは、リノの指示が恐ろしく的確で、その上律でも理解できる術式へと魔法陣の攻勢を改変していったからだ。
 しかしその代わり、魔法陣の数は数倍に増えた。そこからどうやって何をしたのかはあまり思い出したくもない。魔術を使う者として得るものは非常に多かったが、二度とやりたくない気持ちが強い。

「凄いな、君。本当にやってのけるとは思わなかったよ」
「……いや二度としませんよ……」
「はは。助かったよ、ありがとう。君には何かお礼をしないとね。ついでにちょっと手伝ってもらおうかな」
「はあ……とりあえず寝かせてもらえませんか……」
「疲労困憊とはこのことだ。分かった、ひとまずネヴァンに送らせよう」

 からからと笑うリノの声には力がある。全快ではないことは知っているが、その元気が羨ましい。現状のリノは日常生活に支障がない程度――という状態で、それが律の出来る限界だった。恐らく雪乃であれば完璧にやってのけるのだろうと思うと、自分の力量不足があまりにも歯痒い。力を使い切ってしまっているせいで指一本動かすのも億劫だ。また無理をして、と恭が怒る姿が目に浮かぶ。

「詳しい話は明日するとしようか。ゆっくりと休んでくれ。ありがとう、リツ」
「……ドウモ」


「リツおかえりなさい! 無事? 大丈夫? リノに何もされてない? 何より生きてる!?」
「無事ですうるさい黙れ寝かせろ」
「ワーオ、リツの機嫌が氷点下……」

 その後。リツは現れたネヴァンによって、ホテルへと送り届けられていた。先に戻っていたアレクが律を見た瞬間にわあわあと騒ぎ出したものの、それに対応する体力は残っていなかった。心配をかけたことは分かっているが、とにかく疲労があまりにも濃い。ひとまずそのまま死んだように眠った。食事も取りたい気持ちはあったが、食事を取る体力も残っていなかった。
 ほぼ丸一日、死んだように眠って、起きてから適当な食事を取って。一息ついてから、律は報告とアレクに話を聞くために合流した。

「アレク、リノさんのこと知ってるんだね?」
「何度か会ったことはあるんだ。……でもこの仕事がまさかリノ関係だとは思っていなかったな、私がもう少し注意しなきゃいけなかった。ごめんね、リツ」
「注意?」
「リノはねえ……ちょっと困った奴でね……。楽しければいいっていう考え方をしているから、時々『彼方』の味方についてたりするんだよね……そしてユキノを怒らせる」
「うわめんどくさ」
「『鴉』の『化生』の『ウィザード』、だけどまあ『化物』なところもあるからね」
「あー……」

 洞窟でのリノの姿を思い返す。半身を羽毛で覆われた、異様な姿。あれは彼の本来の姿というわけではないだろう。『彼方』が使う術のひとつ、『異形化』だったのだろうか。人ならざる者の姿を顕して己の体力を増幅させる、そういうものがあった筈だ。彼の周囲に広がる大量の魔法陣、間違いなく『ウィザード』の証左であるそれに気を取られていたが、言われてみればその可能性は高い。
 時々そうして『彼方』の術を使う『此方』がいることは、律も知っている。酷いトラウマを抱えた者や、一度『彼方』に堕ちたことがある者、『彼方』から『此方』になった者がその力を残していることもある。その原因は様々で、堕ちたことがあるからといって使えるようなものではない――現に律は今、『ネクロマンサー』の術は使えない。
 しかし『彼方』は『此方』の術は使えない、という話もある。その辺りの認識は難しいところだ。

「ま、これで無事雷雨は止み、仕事は無事完了です。というわけで次の仕事に掛かろうか。リツ、いくつか並行して調査してくれてたよね」
「うん。まあ時間はあったからね」

 やるべきことはいくつかある。心霊スポットと化して入った者が誰も帰ってこなくなってしまう廃墟の調査、明らかに『彼方』の者が起こしている殺人事件の調査等、そういう仕事に関することの事前調査を行っていた。しかしそれより――リノは昨日、「詳しい話は明日」と言っていた。つまり今日、恐らくはこれからここに来る可能性は十分にある。
 あの時は聞きそびれたが、リノの言う詳しい話、というのは彼がどうしてあそこまでの大怪我を負うことになったのか、ということだろう。明らかに律よりも遥かに高難度の魔術を使っているリノがあれほどぼろぼろにされるような相手のことを、律としては正直あまり知りたくはない。基本的に仕事の出来る出来ないという判断はしている。仕事としては解決しているので、これ以上関わり合いにならない方がいいのではないかと思ってしまう。

「どれから片付ける? 私は何をすればいいかな」
「……全部?」
「怒るよ? 何か他に気になることでも?」
「いや多分、これからなんだけど……」
『茅嶋ァ!』
「うわびっくりした!?」

 突如室内に大きく響き渡った声。何が起きたのか分からずに、律とアレクは同時に身構えた。
 目に入ったのは律のスマートフォン。そこに非常に見覚えのある、白いもやもやの人型が浮かび上がっていた。

「……あれ? ぶんちゃん?」
「何あれ!? あれ何リツ!? リツの電話変なもの出てるよ!?」
「アレク見たことなかったっけ。変なものじゃないから大丈夫」
「ほ、ほんとに……?」
『茅嶋! 大変やねん! 聞いてくれ!』
「何、どうしたのぶんちゃん」

 普段は恭のスマートフォンに定住している『分体』だが、その特性上ネットが繋がっていればどこにだって姿を現すことが可能だ。律のスマートフォンもネットに繋がっているものなのだから、律がどこにいても『分体』が律のスマートフォンに来ることは可能だ。
 基本的にあまり『分体』が律のスマートフォンに来ることはない――『分体』の本体だった『彼岸』を律が苦手としていたことを、当然ながら『分体』は知っているので。

『恭が! 恭がえらいこっちゃで!』
「恭くん?」
『何をどこから説明すればええんや……とにかく何か急に頭痛いって言い出して、そのまんまぶっ倒れてもーて!』
「は?」

 恭が頭痛を訴えて倒れる――というのは、どうにも想像がつかない。
 病気の可能性がないわけではないが、それよりも何らかの干渉を受けている可能性が高い。しかし空港で別れたときは別段気になるようなところもなく、いつも通りだった。
この『分体』の慌てようは尋常ではない。ひとまず落ち着かせて話を聞かなければ。

「うーん、私には何を言ってるかさっぱりなんだけれど……。リツ、何か仕事引き継ぐよ。その訳の分からない子の話、聞いてあげて」
「うん……ごめんアレク」
「いいよ。……リツがさっき気にしていたのとは別件だね? 大丈夫?」
「無理そうならまた話すよ。いくつかの資料と調査内容、隣の部屋に置いてある」
「了解」

 首を傾げたアレクの判断は早かった。長らく雪乃たちと仕事をしているわけではない、ということだろう。こういうときに迷わずに対応してくれるのは、非常に助かる。
 隣の部屋へと入っていくアレクの後ろ姿を見送ってから、『分体』に向き直る。今の状況では、何も分からない。


「お兄ちゃんまたねー!」
「はーい、いってらっしゃい!気をつけてね!」

 律がスペインに発ったその日の夕方、恭はバイトに精を出していた。アトラクションの出口から出てきた女の子たちにひらひらと手を振って見送って、少し人がいない隙を見計らってぐぐ、と伸びをする。バイト先であるテーマパークは今日も多忙だ。
 大学1年のときに友人に誘われる形で始めたこのバイトは恭によく合っていたようで、大学3年になった今でも楽しんで続けている。とはいえ1年の頃は部活もあったのでそれほどバイトに入ってはいなかったが、2年の春頃靭帯に怪我を負った。完治するのに数か月掛かってしまったことも手伝って、恭の気持ちは競技としての陸上からは離れてしまい、結局そのまま恭は陸上部を辞めてしまっていた。恭としては元々走ることが好きだっただけで、日本代表や世界を目指す、という気風に疲れてしまったことも要因の一つではあったのかもしれない。
 靭帯の怪我を負ったとき、一応主治医である琴葉には聞いてみた――『ヒーラー』の力で治療はできないかと。しかし琴葉にはあっさりと首を横に振られてしまった。『此方』や『彼方』、それに『彼岸』の力で負ったものではなく、普通に怪我を負ってしまった分にはどれだけ大きな怪我でも治せないのが『ヒーラー』の力の不便なところなのだと困ったように返された。律の魔術としてはそういった制約のようなものはないが、元々『ウィザード』の魔術は治療に向いていない。どうしても普通の怪我は少し治りが早くなる程度だ。世の中そう上手くはいかないな、と思いながら数か月足を引きずって生活したのは、今は懐かしい思い出だ。

「恭がお客さん口説いてる! 見ちゃったー」
「いつ俺が口説いたよ!? ていうか何でひびちゃんいるの!? いつからいたの!?」
「イケメンって罪深いよなー、笑顔で手を振るだけで女の子口説けるもんなー」
「ひびちゃん俺仕事中」
「見たら分かるし知ってら」

 恭の斜め後ろにあるベンチに、いつの間にやら一人の女子――ではなく。女装男子である友人、響が座っていた。暇があれば響はよくこのテーマパークを訪れている。年間パスを持っているので使わないと損だと本人は言っていた。それだけ好きなら一緒に働かないかと誘ったこともあるが、「裏側を知りたくない」という理由で断られている。

「なあ恭ヒマある?今日の夜とか。ちょっとお前に話あんだけど」
「今日の夜は閉園までバイトしてるしー、明日は昼まで試験でそっから閉園までバイトかな」
「……何そんな働くのお前? どした?」
「律さんのおばあちゃんのお葬式のときにシフト代わってもらったからさあ。その分働いてるだけ、ちょっとだけ」
「あー、なるほど? 忙しいわけだ」
「ま、明日乗り切ったらいつもの感じだけど」

 どうにも、自分が忙しいという自覚はあまりない。一時期の律に比べれば大したことはない、と思ってしまうからだろう。これくらいで音は上げられないし、特に苦痛にも感じていない。

「んー、まあいっか。じゃあ今日お前んち集合」
「え、俺帰ったら寝る」
「小夜も呼んどくわー。じゃ、残りの仕事頑張って」
「ちょっとひびちゃん!? 俺の話聞いてた!?」

 恭が叫んだところで、響に聞くつもりはないのだろう。にやにやと笑った響はそのまま軽い動作でひょいと立ち上がると、あっという間に立ち去ってしまった。追いかけたいのをぐっと我慢する。仕事中に持ち場を離れるわけにはいかない。
 どうしたものかとは思ったものの、一週間ほどばたばたしていたのであまり話が出来ていない。わざわざ訪ねてきたのだから、何かしたい話があるのだろう。半分寝ているような状態で聞くことになるような気がするが、大丈夫だろうか。

「すいませんー、ちょっと教えてほしいんですけどー」
「あ、はいはーい!」


「いやまさか玄関の前で仁王立ちされてると思わないじゃん?」
「ちょっと帰ってくるのが遅すぎると思いませんの」
「だーから俺今日バイト! してた!」

 自宅に帰ると、玄関前で小夜乃に仁王立ちされていた。隣で座り込んでいた響が恭を見上げてひらひらと手を振る。この家の前で変な噂が立つと律に怒られる、と恭は頭を抱えた。いっそ鍵を渡して中で待っていてもらった方がよかったかもしれない。
 三条 小夜乃――数年前知り合った、琴葉の相棒である『ディアボロス』。実年齢は不明だが、何がどうなったのか小夜乃は恭のことを気に入っているようで、「面白そうだから」という理由で現在恭の同級生として大学に通っている。現在は恭と響と小夜乃の3人でああだこうだとしていることが多い。
 もっとも、恭は律に小夜乃の話をしたことはない。仲の良い友人だとは思っているが、しかしそれでも小夜乃は『ディアボロス』で『彼方』の人間だ。恐らく律はいい顔をしないだろう、という予想くらいはできる。受け入れてあげてほしいとは思うが、それが難しいことが分からないほど馬鹿ではないつもりだ。

「ねー俺とりあえずシャワー浴びてきていい?」
「そのまんまベッド直行して寝るなよ」
「正直寝たい」
「寝たらたたき起こしてあげますからご心配なく。というか夕飯まだでしょう?」
「あ、作ってくれんの!? ラッキー」

 わいわいと騒ぎながら、2人を部屋の中に招き入れて。
 夕飯の単語に反応して、ぐうと腹が鳴る。ほぼ一人暮らし状態とはいえ、恭は料理が非常に不得手だ。『分体』と共に何度か料理のサイトを睨みながら挑戦はしたのだが、結果は惨敗。食べる専門で作るべきではないという結論に達した。
 その代わり――というには変だが、律がこちらにいるときは相変わらず食事の用意をしてくれるし、桜も時々お弁当を作ってくれたり、響と小夜乃も料理は上手い。誰かが何かを作ってくれる環境にいられるので、本当にありがたい話だ。反省してやはり自分で時々思い立つこともあるのだが、全員にやめろと言われるのでやはり才能がないのだろう。米がきちんと炊けるようになっただけ良いだろうと思うことにしている。
 シャワーを浴びている間に、小夜乃が夕飯をこしらえてくれていた。温かくて美味しい食事は疲れた体に染みる。

「さて、恭はメシ食い終わったら絶対寝るから、メシ食いながら聞け」
「うい」
「ちなみに一応関係あんの小夜な」
「私ですか?」
「小夜ちゃん?」

 唐突な響の発言に、恭と小夜乃は顔を見合わせる。恭にしたい話で小夜乃に関係がある話、という意味がよく分からない。あまり良い話ではなさそうだな、と直感する。

「まあ幽霊騒ぎだの何だのは大して珍しくねーから放置しとくとして」
「待って気になる」
「そんなことより問題なことがあってさー。どうにも『彼方』が結構な人数狩られてるみたいでさ」
「……狩る? またえらく物騒な話ですわね?」
「んー。色んな奴が襲われて無力化されてるっぽくて」

 言葉を選びながら話す響の話の内容は、やはり穏やかではない。『此方』の人間の中には『彼方』を目の敵にしている人間も多いのであまり珍しいことでもないが、響がこうして問題にするということは普段よりも、ということなのだろう。
 響は『サイキッカー』だ――恭の相棒である『分体』も情報収集を得意としているが、響は更にその上をいく。情報を検索して収集する『分体』に対して、響は情報を読み取っていくタイプだ。様々な人の考えやその場所で何が起きたかを読み取る、そういう力を持っている。

「……ただの無力化ですの? 殺されている、というわけではなく?」
「人死には出てねーよ。ただ結構ぎりっぎりまで追い込まれたヤツとかもいるみたいだから、もしかしたら時間の問題の可能性もある」
「それで私に気をつけろと?」
「いや小夜はその点あんま心配はしてねえけどさあ、どうにも襲われてる『彼方』が『ディアボロス』多い気して気になってさ……」
「ほえー。じゃあ『ディアボロス』狩りって感じなんだ?」
「面白くない話ですわね。けれど、それならば犯人は『エクソシスト』なのでは?」
「いや、違うな絶対」

 確信を持って、響がふるふると首を横に振る。『エクソシスト』と『ディアボロス』は表裏一体ながら天敵同士だ。『ディアボロス』が狩られているというのであれば短絡的に『エクソシスト』だろうと思ってしまうが、違うとなれば誰が何の目的なのだろうか。ぼんやり考えながら咀嚼して飲み込んだ瞬間、響の視線が恭に移った。

「……えっ!? 俺何もしてないよ!?」
「知ってらんなことは! 誰が恭が犯人つった馬鹿! ああコイツ馬鹿だったわ……」
「ひでえ!?」
「いや、お前の知り合いにさ、女の『陰陽師』か『外法使い』の知り合いいる? 知り合い多いだろ」
「おんなのひと……?」

 言われて考えてはみるものの、女の知り合いで該当する人間はいない。『陰陽師』にも『外法使い』にも知り合いはいるが、どちらも男だ。恭の反応を見てすぐに分かったのだろう、そっか、と響は残念そうに肩を落とした。

「女の『陰陽師』か『外法使い』が犯人ですの?」
「あー、いや、それはちょっと分からん」
「分からない? 響が?」
「幾つか現場行って色々読み取ってはいるんだけど、よく分からん」
「めずらし」
「多分調査妨害食らってんだよなー。つーことで」
『出番か!?』

 声と共に、テーブルの上に置いていた恭のスマートフォンから出てくる小さな人型の白いもやもや。恭の相棒である『分体』の姿に、さすが、と響は頷いた。その様子を見ながら最後の一口を食べ終わった恭はごちそうさまでした、と手を合わせる。
 ふわ、と欠伸ひとつ。さすがに連日の暑さもあってかなり体力を消耗している。腹が膨れるとどうにも睡魔はつきものだ。

『ちゃちゃっと調べたる! 恭寝かしたってくれ』
「だいぶ眠そうですものね。では話の続きはぶんちゃんの調査を待って明日としません?」
「んー、そだな。これ以上話せることもねえし」
「あ、やば、ねむ……おやすみい」
「馬鹿、布団にくらいは入れ!」

 そのときはまだ平穏だった恭の日常が変わってしまうのは、まだもう少し先の話だ。